ジャンボローニャ
ジャンボローニャ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/25 03:47 UTC 版)
ジャンボローニャ
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Giambologna | |
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「ジョバンニ・ボローニャの肖像」 ヘンドリック・ホルツィウス画 |
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生誕 | 1529年 ドゥエー |
死没 | 1608年8月13日 フィレンツェ |
ジャンボローニャ(Giambologna、1529年 - 1608年8月13日)は、後期ルネサンスまたはマニエリスムの彫刻家。生まれたときの名前はジャン・ブローニュ (Jean Boulogne)で、間違ってジョバンニ・ダ・ボローニャ (Giovanni da Bologna) またはジョバンニ・ボローニャ (Giovanni Bologna)と称されることもある。
生涯
フランドルのドゥエー(現在はフランス国内)で生まれた。アントウェルペンで建築家で彫刻家の Jacques du Broeucq に学び[1]、1550年にイタリアに移り住み、ローマで特に古典古代の彫刻について詳細に学んだ。ミケランジェロにも大きな影響を受けたが、感情表現をやや強調し、表面の滑らかさや優雅さや美をさらに強調した独自のマニエリスム様式を発展させた。教皇ピウス4世の命で最初の大作であるネプトゥーヌスの巨大ブロンズ像を制作した。この像はボローニャのマッジョーレ広場にあるネプチューンの噴水 (en) に設置された(噴水全体は Tommaso Laureti が1566年に設計)。1553年フィレンツェに移り住んでから彫刻家としての最盛期を迎えた。10年後、メディチ家のコジモ1世大公が1563年1月13日に創設した Accademia delle Arti del Disegno の会員となった。ここで画家で建築家のジョルジョ・ヴァザーリの影響を受け、メディチ家の重要な宮廷彫刻家の1人となった。79歳のときフィレンツェで死去。メディチ家はジャンボローニャがオーストリアやスペインの宮廷に終身雇用されることを恐れ、彼をフィレンツェから一歩も出さなかった。サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会にある自身の設計した礼拝堂に埋葬された。
作品
ジャンボローニャは動きを捉えるセンスと卓越した表面仕上げの技法でよく知られるようになった。中でもメルクリウス像(4バージョン制作している)は、ゼピュロスに支えられ片脚で立っている姿を描いている。この神像は片手を天に向かってあげており、古典古代によく見られる身振りを借用したもので[2]、ジャンボローニャのマニエリスムの特徴となっている。
ジャンボローニャはウェヌス像も何度か制作しており、これが女神のプロポーションの規範となって、後のイタリアや北方の彫刻家に影響を与えることになった。彼はメディチ家のプロパガンダの一環として「ピサを征服したフィレンツェ」像などの寓意像も制作している。フランチェスコ1世・デ・メディチの命で制作した「サムソンとペリシテ人」(1562年)[3]も同様の意図があるとされている。
有名な「サビニの女たちの略奪」(1574年 - 1582年)は、3人の人物が複雑に絡み合った様を描いた意欲作である。なお、この題名はフィレンツェのシニョリーア広場にあるロッジア・ディ・ランツィに展示することが決まってから付けられたものである。「ヘーラクレースとネッソス」(1599年)も力作である。こちらもロッジア・ディ・ランツィにある[4]。
また、これもフィレンツェにあるコジモ1世の騎馬像は、弟子のピエトロ・タッカが完成させた。
ジャンボローニャは、フィレンツェのボーボリ庭園やヴィラ・ディ・プラトリーノの庭園用に多数の彫像を制作している。またピサ大聖堂の青銅製の扉も制作した。Villa di Castello の庭園には様々な動物を彫刻した習作があったが、その多くはバルジェロ美術館に展示されている。彼の代表作を縮小して再現したブロンズ像が当時から作られており、ジャンボローニャの名声が低下したことがないため、常に高値で取引されてきた。
ギャラリー
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「メルクリウス」像
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「サムソンとペリシテ人」1562年ごろ
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「サビニの女たちの略奪」(1574-82)、フィレンツェ。題名は完成後に付けられたもの
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L'Architettura(バルジェロ美術館)。ジャンボローニャの理想の女性像である手足の長い女性の彫像の一例。
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「アペニン山の巨像」
影響
ジャンボローニャには次のような弟子がおり、彼らが活躍することでジャンボローニャが後の彫刻界に大きな影響を与えることになった。
- アドリアーン・デ・フリース
- ピエトロ・フランカヴィッラ - 1601年にジャンボローニャのアトリエを離れ、パリに移住。
- ピエール・プジェ - 北ヨーロッパにジャンボローニャのマニエリスムを広めた。
- ピエトロ・タッカ - ジャンボローニャのフィレンツェの工房を受け継いだ。
さらに間接的にジャン・ロレンツォ・ベルニーニやアレッサンドロ・アルガルディに影響を与えている。
脚注・出典
- ^ R. Wellens, Jacques du Broeucq, sculpteur et architecte de la renaissance (Brussels) 1962
- ^ ラファエロの「アテナイの学堂」に描かれたプラトンのポーズも同様である。
- ^ メディチ家の噴水用に作った大理石像。ジャンボローニャの大理石の大作としては唯一フィレンツェから持ち出された作品である。Duke of Lerma に贈られ、そこからチャールズ1世の婚約の際に贈られた。さらにジョージ3世からトーマス・ワースレイ卿に与えられた。1953年、Art Fund が購入してヴィクトリア&アルバート博物館が所蔵することになった。([1]; “アーカイブされたコピー”. 2008年4月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年3月16日閲覧。).
- ^ ブロンズ版がアムステルダム国立美術館にある。[2].
参考文献
- Gloria Fossi, et al., "Italian Art", Florence, Giunti Gruppo Editoriale, 2000, ISBN 88-09-01771-4.
- Charles Avery, Anthony Radcliffe, Giambologna 1529-1608; Sculpture to the Medici, Arts Council of Great Britain, 1978, ISBN 0-7287-0180-4.
外部リンク
- Biography with a portrait on kfki.hu
- Giambologna on mega.it
- Giambologna on artcyclopedia.com
- “Model of a River God”. Sculpture. ヴィクトリア&アルバート博物館. 2007年9月22日閲覧。
ジャンボローニャ
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「サビニの女たちの略奪」の記事における「ジャンボローニャ」の解説
ジャンボローニャがこの主題を描いた彫像(1579年 - 1583年)は、3人の男女を描いたもので(男が女を持ち上げ、その下で別の男がかがんでいる)、単一の大理石の塊から彫りだしたものである。ジャンボローニャの最高傑作とされている。元々はジャンボローニャが何を主題としたわけでもなく複雑な群像彫刻で自らの技量を示した作品であり、その主題を「サビニの女たちの略奪」としたのはフランチェスコ1世・デ・メディチがこれをフィレンツェのシニョリーア広場にあるロッジア・ディ・ランツィに展示することを決めた後のことである。マニエリスムの稠密で複雑に絡み合った人物を描く様式に忠実であり、様々な感情を表現し、あらゆる角度からの鑑賞に耐えるようになっている。約80年前に完成したミケランジェロのダビデ像と比べると、ダビデ像は単一視点の穏やかなポーズである。ジャンボローニャのこの作品はバロックへと向かう萌芽が見られ、動きに溢れているが、まだ堅く心地悪く、垂直の動きしかない。これは、ジャンボローニャが単一の大理石から彫りだすという制限を自らに課したためという理由もある。したがってこの作品には斜めの動きがないが、それを成し遂げるのは約40年後のベルニーニで、「プロセルピナの略奪」や「アポローンとダプネー」といった作品がある(どちらもボルゲーゼ美術館)。 展示場所の反対端にはベンヴェヌート・チェッリーニのペルセウス像があり、このジャンボローニャの作品もそれに倣って「ピーネウスによるアンドロメダー略奪」とでもすべきだという示唆がなされた。他にもプロセルピナの略奪やヘレネーの略奪といった題が検討されている。最終的にこの彫像で略奪されようとしているのは、サビニ人の娘の1人だということが決まった。 この作品には OPVS IOANNIS BOLONII FLANDRI MDLXXXII(フランドルのジャン・ブローニュの作品、1582年)と署名がある。この作品のための青銅製の習作がナポリのカポディモンテ美術館にある。この習作では2人しか描かれていないが、ジャンボローニャは3人目を加えた習作も作っており、その蝋模型がロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に2体ある。ジャンボローニャは本作と同じ大きさの石膏模型を1582年に作っており、それはフィレンツェの Accademia Gallery にある。こうして完成した大理石像がシニョリーア広場のロッジア・ディ・ランツィに展示されている。 ジャンボローニャの工房でこの彫像のミニチュア版ブロンズ像が作られ、他の人々がこれを複製し、19世紀にはコレクションの対象となっている。
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