シュールレアリストへの道
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「矢崎博信」の記事における「シュールレアリストへの道」の解説
この節の出典: 1935年(昭和10年) 同盟休校事件(学生ストライキ、矢崎やそのグループ仲間達も参加。)が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身、北 昤吉が名誉校長となった。)が分離独立。同年、小山田二郎、有海千尋、金子親、小島義成、山鹿正純、横山千勝らと前衛美術グループ「L'anima(アニマ)」を結成、アニマとは生命という意味で、「行動主義」を提唱したフランス文学者小松清により名づけられた。小松は帝国美術学校に招かれ幾度も講演会を開いていた。学生達は彼の影響を受け、慕い、小松の家は学生のたまり場となっていた。矢崎も小松の影響を受けていて、アニマや後に結成する動向の仲間たちと提唱した、報告絵画という活動がある。「報告」とは、ある場所を訪れ、そこで起きたことを多くの人に伝える、文学や映画のジャンルで、矢崎達は絵画で表現しようとした。しかもそれにシュルレアリスムの要素を加え、現実のルポルタージュと超現実世界の融合した作品で、白昼(意識的活動の場)において夜(夢、又は無意識の場)を見つめ、両者の関係を「或る意味づけをしめす」ものと考えた。これらは小松の提唱した「行動主義」の影響である。 アニマ第1回洋画展(銀座紀伊国屋画廊)に「絵の具との共同制作」「煙」「朝」を出品。同年に計4回のアニマ洋画展を紀ノ国屋画廊で開催。 1936年(昭和11年)には映画研究会『T映』を浅原清隆、庄司正(日本画科)と発足。同年、四宮潤一、瀧口修造、大塚耕二らの結成した研究団体アヴァン・ガルド芸術家クラブに参加。(瀧口が慶應義塾大学予科在学中1930年にアンドレ・ブルトン〈シュールリアリズムの創始者、彼が一時期共産主義者だった事が、戦時下日本のシュールレアリスト達への弾圧につながった。〉の『超現実主義と絵画』を翻訳。本書は日本における本格的なシュルレアリスムの最初の文献として美術家に広く読まれていた。帝国美術学校のアニマ、動向の仲間たちも、瀧口を敬愛し、影響を受けていた。)そして、また同年、井上愛也・今井康雄・富岡宏資・山鹿正純・浅原清隆と前衛美術グループ「動向」を結成する。 アニマ第5回展に「江東区工業地帯」出品(紀伊国屋画廊)。 動向第1回東京報告絵画展に「日本橋」「二つの銅像」「屋根風景」出品。 1937年(昭和12年)「アトリヱ」誌〈アトリエ社またはアルス〉(第14巻第6号1937年6月号等、数回)に論文が掲載され、シュルレアリスムを理論的に追求しようとする矢崎の哲学が評価された。 1938年(昭和13年)第8回独立美術協会展に「高原の幻影」が入選。帝国美術学校卒業。映画会社の就職試験に落ちたため、帰郷し、父源三の紹介で岡谷町立尋常高等小学校代用教員の職につく。信州文壇社主催、信州美術展第1回洋画展覧会に「湖畔の煙」等が入選。(帰郷後も瀧口修造、大塚耕二らとの交流は続いていた。)
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