シネマトグラフの開発
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「シネマトグラフ」の記事における「シネマトグラフの開発」の解説
オーギュストとルイのリュミエール兄弟は、リヨンにあるヨーロッパ最大の写真乾板製造会社リュミエール社(フランス語版)の経営者である。彼らがシネマトグラフを開発するのは、1894年夏頃にパリでキネトスコープを見知った父親のアントワーヌ・リュミエール(フランス語版)から、動く写真映像装置を研究するよう指示されたのがきっかけだとされているが、その詳細ないきさつについては諸説ある。映画史家のアンリ・キュブニックによると、アントワーヌはキネトスコープを1台購入し、それを息子たちに見せて研究を指示したという。しかし、ルイは「キネトスコープがリュミエール工場に運び込まれたこともなければ、それを見たこともなかった」と否定している。リュミエール社主任技師のシャルル・モワソン(フランス語版)によると、アントワーヌは手に入れたキネトスコープのフィルムの断片を見せて、ルイたちに研究を指示したという。 シネマトグラフの開発で最大の課題となったのは、フィルムを正確に動かすためのシステム(間欠機構)を見出すことだった。まずオーギュストがこの問題に取り組んだが、よい結果が得られず失敗した。オーギュストはシネマトグラフの技術的側面に関心を持たなくなり、その後の開発作業はルイを中心にして行われた。やがてルイはミシンの布押えのシステム(布を押え、針で糸を通し、そして布を送り出す仕組み)から着想を得て、爪でフィルムを送る方法を考案した。ルイによると、そのアイデアは1894年暮れのある夜、気分が優れずベッドで横になっていた時に、突然頭に浮かんだという。前述のようにシネマトグラフはそれ以前の複数の研究成果に基づいたものであるが、このフィルム送りの方法は装置にオリジナリティーを与える機構となった。 シネマトグラフのプロトタイプは、ルイのデッサンに基づいてモワソンが組み立てた。その最初の撮影実験では、リュミエール社で作った写真用の紙のロール・フィルムを使用したが、それはアーク灯で強い光を当てて透かして見ることはできても、映写に適するような透明度を持ってはいなかった。やがてルイはセルロイド・フィルムを使用することになるが、当時はフランスでセルロイド・フィルムを製造する会社がなかったため、アメリカのニューヨーク・セルロイド・カンパニーからフィルムベースを仕入れ、それにリュミエール社の感光乳剤を塗り、モワソンがミシンの原理を改良して作った機械でパーフォレーションを開けた。最初の撮影を始めた時期については諸説あるが、映画史家のヴァンサン・ピネルは「1895年以前にシネマトグラフは作動しなかった」と主張し、ローラン・マノーニも「紙のものであれ、セルロイドのものであれ、リュミエール兄弟によって1894年に映画が撮影されたという証拠はまったくない」と述べている。1895年2月までには、モワソンによりシネマトグラフの第2のプロトタイプが完成した。 1895年2月13日、シネマトグラフは特許245032号として認められ、ルイとオーギュストの連名で特許証書が交付された。この時はまだシネマトグラフという名称を使用しておらず、「クロノフォトグラフィによるプリントを撮影し、かつ見せることに役立てる装置」という名称が付けられた。3月30日には追加特許が交付され、この時に初めて「シネマトグラフ」という名称が用いられた。ルイによると、アントワーヌは最初「ドミトール」という名前を付けようと提案したが、ルイとオーギュストが反対して「シネマトグラフ」に決まったという。その後、リュミエールはパリの機械工ジュール・カルパンティエ(フランス語版)にシネマトグラフの製造を請け負わせ、技術的完成度を高めるために細かな改良を施した。10月にルイはカルパンティエに25台の装置を発注したが、1896年1月初旬までに納入されたのはわずか3台で、そのうち1台はグラン・カフェでの上映会で使用された。
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