シネマトグラフの衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 16:31 UTC 版)
「シネマトグラフ」の記事における「シネマトグラフの衰退」の解説
シネマトグラフが世界各地で上映されて成功を収め、映画が高い収益を生む優れた事業であることが証明されると、世界中で数多くの映画装置が作られ、映画興行も盛んに行われるようになった。1897年までに映画に対する需要は増大し、リュミエール社に対抗する競争相手も数多く登場した。例えば、エジソン社(英語版)がヴァイタスコープ、アメリカン・ミュートスコープ社(英語版)がバイオグラフ、ゴーモン社がクロノフォトグラフ・ジョルジュ・ドゥメニー、ロバート・W・ポールがシアトログラフ(英語版)を販売した。また、ヨーロッパではバクスター&レイ社の「B&Wシネマトグラフ」やアンリ・ジョリ(フランス語版)の「シネマトグラフ・ジョリ」をはじめ、「シネマトグラフ・サンソン」「シネマトグラフ・エジソン」「シネマトグラフ E・ピルー」など、シネマトグラフの名称が付けられた装置や模造品が多く出回っていた。 映画をめぐる競争は世界的に激化し、リュミエール社のシネマトグラフは当初の独占的な成功を維持するのが難しくなっていた。さらにシネマトグラフの上映場所が増えるにつれ、リュミエール社技師だけですべてを管理することができなくなるなど、リュミエール社の事業も増大する映画需要に応えきれなくなっていた。こうした理由により、1897年5月1日にリュミエール社は代理人制度による独占的管理を止め、シネマトグラフとフィルムの販売を開始した。装置1台の値段は、付属品を含めて1650フランだった。同年にはカルパンティエにより上映のみを目的としたシネマトグラフが製造され、1台300フランで市販された。 しかし、その後のリュミエール社のシネマトグラフ事業は上手くいかなかった。この頃にはシネマトグラフよりも良質な装置が出回っていたこともあり、シネマトグラフの販売で成功を収めることができなかった。1900年前後にはリュミエール社のための作品を撮影する技師は数人しかいなくなり、フィルムの本数も1897年までは毎年平均400本撮影されていたのに対し、1898年以降は毎年平均50本ほどにまで減少した。やがてリュミエール社はシネマトグラフの特許をパテ社に売却し、1905年に映画撮影を中止した。パテ社はシネマトグラフの特許を活用して「Pathé Professionnelle」という映画用カメラを製造販売したが、これはサイレント映画時代に世界で最も広く普及したカメラのひとつとなった。
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