シネマトグラフの輸入
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1896年(明治29年)、毛斯綸紡織の社用でフランスに渡った際、リヨン留学時代の友人であるオーギュスト・リュミエールから、彼が弟と発明したシネマトグラフの上映を観て、この光学的な装置に魅力を感じ、シネマトグラフの日本輸入に巨費を投じた。リュミエールと契約を結んだ稲畑は、装置2台とフィルム、シネマトグラフの興行権を買い取り、リュミエール社の撮影技師兼映写技師のコンスタン・ジレルを連れて、1897年(明治30年)1月に帰国した。 同年、四条河原町近くにあった京都電燈株式会社の庭(後の立誠小学校(廃校)の敷地内)で試写実験が行われたが、映写知識がなかったため試行錯誤し、なんとか上映できるまでになり、2月に大阪の南地演舞場で初の有料の上映会を行った。これが日本初の映画興行となった。 また、ジレルはリュミエールの要請で日本の風景や日常、芸者の踊りなどを撮影。稲畑もこれに加わっており、日本初の映画撮影にもかかわっている。ジレルが撮ったフィルムのなかにはアイヌの踊りを写したものや、列車が到着するところを写したものなどがあり、その一本に稲畑一家が食事をとっている様子を写したものもある。 しかし、稲畑は費用が予想以上に嵩むことなどを理由に活動写真興行からは手を引き、友人の横田万寿之助・横田永之助兄弟に興行権を譲った。
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