コンスタンティヌス1世の改革
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「ドミナートゥス」の記事における「コンスタンティヌス1世の改革」の解説
ディオクレティアヌスの時代に副帝を務めていたコンスタンティウス・クロルスの子コンスタンティヌス1世は、ディオクレティアヌス引退後の内乱を収拾して、競争者である他の皇帝を倒し、唯一のローマ皇帝となった。コンスタンティヌスは、ディオクレティアヌスの改革をさらに押し進めて官僚制を整備した。コンスタンティヌス治下では役人達の逸脱に対して権利を保障する存在として法が厳密に運用され、皇帝自身も法を遵守しなければならなかった。たとえコンスタンティヌスが独裁的な人物であったとしても、その制度はディオクレティアヌスの時代と同様に元首政と呼ぶべきものであった。 コンスタンティヌス1世は最高位の軍事司令官としてマギステル・ミリトゥムという官職を創設し、ローマ皇帝が前線司令官を任命する体制を作った。従来の近衛隊長官は文官の最高官職である「道(Praetorian prefecture)長官」となった。文官と軍官の分離が進められ、軍官に与えられていた行政権の多くがローマの元老院へと委ねられた。ローマ人エリート層の多くは軍服を取り上げられて文官となり、代わりに大規模な蛮族兵の徴募が行われた。蛮族の登用はコンスタンティヌス1世の以前から行われていたが、これほどの大規模な登用は初めてのことであった。これらの改革により「ローマ人の行政官と蛮族の軍人」という後期ローマ帝国の体制ができあがった。またコンスタンティヌスはキリスト教を公認し、これを利用して皇帝の権威を高めた。 コンスタンティヌス1世は、世襲を忌避したディオクレティアヌスとは異なり、子のクリスプス、コンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス1世、そして甥のダルマティウス(英語版)に次々と副帝の称号を与えた。彼らの多くは「副帝として相応しい」とは考えられない幼少時から副帝に任じられており、コンスタンティヌス1世が一族の王朝的継続性を望んでいたことを示している。コンスタンティヌス1世の一族による政治の独占は長くは続かなかったが、後の皇帝ウァレンティニアヌス1世やテオドシウス1世没後の東西ローマ帝国でも幼少な皇帝は擁立されており、帝政前期であれば無能な皇帝は暗殺などの手段によって帝位を剥奪されたのであるが、この時代には臣下が暗君・幼君に代わって実質的に政治を執り行う王朝体制に移行しつつあったことを示している。この時代の政治の実状は皇帝の名前や行動はほとんど重要ではなく、かつて専制君主制と説明されていた状況とは全く異なるものであった。こうしたオリエント的な王朝体制は帝国の東方では受け入れられた一方、帝国本土では受け入れられず、西ローマ帝国においては皇帝の重要性が急速に低下することとなった。帝国本土ではスティリコやリキメルといった蛮族出身の将軍が皇帝に代わって「ローマ人の守護者」と呼ばれるようになり、5世紀末には「もはやローマに皇帝は不要である」として西ローマ皇帝の地位そのものが廃止されることとなった。
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