グランプリでの戦績
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「メルセデス・ベンツ・W125」の記事における「グランプリでの戦績」の解説
W125は1937年5月のトリポリグランプリで初めて実践投入された。メルセデスは4台のW125をこのグランプリに出走させ、その内の一台に乗るドイツのヘルマン・ラングが自身にとってのグランプリ初優勝を飾った。この優勝はメルセデスW125にとってのデビューウィンでもあったが、同時に1936年5月以来初めてメルセデスがアウトウニオンのマシンを破って挙げた勝利だった。トリポリグランプリでの勝利の後、W125はドイツのアヴスで行われたレースに出走した。2つのコーナーによって繋がれる約6マイル (10 km)の 長い2本のストレートというアヴス・サーキットのコースレイアウトはレーシングカーがその最高速度に達することを可能にしていた。メルセデスはこのレースに2台のW125を出走させたが内1台は高い最高速を可能にする流線型ボディーのマシン(ストリームライナー)であり、リチャード・シーマンが乗るもう1台のW125は通常のボディーでストリームライナー仕様に問題が発生した場合の予備という位置付けだった。ストリームライナー仕様は通常のW125と比べて25 km/h (16 mph)も速い最高時速に達することができた。決勝レースでストリームライナーのW125はトップ走行中の3週目にギアボックスの故障でリタイアし、シーマンのW125が5位でフィニッシュした。 ニュルブルクリンクで行われたアイフェルレンネンには5台のW125が出走した。クリスチャン・カウツが乗る1台には新しい吸引式キャブレターのスーパーチャージャー・システムが搭載されており、この車両は9位でレースを終えた。チームメイトのルドルフ・カラツィオラとマンフレート・フォン・ブラウヒッチュはそれぞれ2位と3位でフィニッシュした。その後、2週間内で行われる2つのビッグレースに向けてメルセデスはチームを2つに分けて両方のレースに参加することを選んだ。2台(内1台はカウツの車で使われた吸引式キャブレターのスーパーチャージャー・システムを搭載)のW125がアメリカで行われるヴァンダービルト・カップに出走し、3台がこの年のヨーロッパ選手権の初戦となるベルギーグランプリに出走した。リチャード・シーマンがヴァンダービルト・カップで2位に入り、ベルギーグランプリに参加したW125は3位と4位でフィニッシュした。新開発のスーパーチャージャー・システムを搭載したシーマンのW125が好成績を残したことを受けて、このスーパーチャージャー・システムが他の全てのW125に搭載されることが決定された。 その後に行われた2つのレースはいずれもヨーロッパ選手権の対象となるグランプリだったが、特に次戦のドイツグランプリはメルセデスとそのライバルのアウトウニオンにとって地元でのグランプリだった。ドイツグランプリではカラツィオラがこの年の初勝利を挙げ、ブラウヒッチュも2位に入りメルセデスは大きな勝利を収めた。続くモナコグランプリではブラヒッチュが優勝、カラツィオラが2位となり、3台目のW125に乗るカウツも3位でフィニッシュした。 次にメルセデス・チームはイタリアで行われるヨーロッパ選手権外のコッパ・アチェルボ(英語版)に参加した。シーマンはプラクティス走行中にクラッシュして車を大破させたため、ブラウヒッチュとカラツィオラのみがスターティンググリッドに並んだ。シーマンはレース途中でカラツィオラと交代してマシンに乗り込みエンジントラブルが有りながらも5位でフィニッシュした。一方のブラウヒッチュは2位でレースを終えた。続くスイスグランプリはヨーロッパ選手権の残る2戦の内の一戦だったが、メルセデスW125はモナコグランプリでの成功を繰り返し、カラツィオラが優勝、ラングが2位、ブラウヒッチュが3位に入り再び1位から3位を独占した。1937年のヨーロッパ選手権の最終戦イタリアグランプリはリヴォルノ・サーキットで行われた。このレースではカラツィオラがラングを僅か0.4秒の差で抑えて優勝し、この年のヨーロッパチャンピオンに輝いた。ブラウヒッチュはリタイアに終わりポイントランキングで2位になった。カウツとラングがそれぞれ選手権3位と4位になったことでメルセデスのドライバーがポイントランキングの1位から4位を独占するという結果になった。 W125はシーズン終盤の2つの非選手権グランプリに出走した。その1つはチェコスロバキアで行われたマサリク・グランプリだったが、このグランプリでカラツィオラが挙げた勝利がW125にとって最後の優勝となった。このレースではブラウヒッチュが2位、シーマンが3位でフィニッシュした。しかし5週目にラングのW125がクラッシュして観客の列に突っ込み、2人の死者と12の負傷者を出したことで勝利の喜びは損なわれた。W125にとっての最後のレースとなったドニントングランプリではアウトウニオンのローゼマイヤーが独走で優勝し、ブラウヒッチュが2位、カラツィオラが3位に入ったものの、他に出走した2台のW125はトラブルでリタイアに終わった。一方で地元イギリスのERAのマシンは競争力が無く、完走扱いになるレース距離を走り切ることができなかった。
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