クレンツ書記長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 22:28 UTC 版)
「ドイツ社会主義統一党」の記事における「クレンツ書記長」の解説
ホーネッカーに代わって書記長となったエゴン・クレンツはホーネッカーの創設したFDJの議長を務めた人物であり、治安担当書記、政治局員、国家評議会副議長として政権ナンバー2と目されてきた人物であった。クレンツは一党独裁制の枠内での改革を表明したが、党員や国民の反発は強く、24日の人民議会でクレンツを国家評議会議長・国防評議会議長に選出した際には全会一致で選出する慣行が破られ、国家評議会議長で26票の反対、27票の保留、国防評議会議長で8票の反対、17票の保留があった。 抗議デモも全国各地で発生し、11月4日には首都東ベルリンのアレクサンダー広場で100万人規模のデモ(ドイツ語版)が発生するなど、国内は混乱し、クレンツ政権は発足早々危機的状況に立たされた。 また、クレンツ政権は外国への旅行を規制する法律を緩和する新法案を提出したものの、政府の許可を要するなど様々な留保が付けられていたために11月6日に開かれた人民議会で行われた採決で法案が否決されたため、やむなく新たな政令で対処しようとした。政令は11月10日から発効することになっていたが、混乱の中で情報伝達が上手く行っていなかったためスポークスマン役だった政治局員のシャボフスキーは西側への出国が「直ちに、遅滞なく」行われると11月9日の記者会見で発表してしまった。これを見た多くの東ベルリン市民が検問所に詰めかけた結果、国境警備隊は境界線を開放してしまい、ベルリンの壁は崩壊した。 優柔不断なクレンツの性格も災いし、重大な転換がなし崩し的に行われ、東ドイツは混乱を深めて行った。クレンツは党員集会でも、党員達から激しい突き上げに合うようになっていた。クレンツは12月に臨時党大会を行うことを決定したが、それまで身動きが取れない党に代わって、13日に発足したハンス・モドロウ内閣とDBDのギュンター・マロイダ議長が率いる人民議会が国政の主導権を取り、SEDの力は衰えていった。クレンツに代わってゴルバチョフからの信頼が厚かったモドロウは衛星政党だった4党に多くの閣僚ポストを配分し、改革を進めて行った。11月18日、人民議会はSEDの指導権を明記した憲法第1条を修正する憲法改正委員会とホーネッカー政権時代の幹部による汚職・権力乱用を調査する委員会の設置を決定した。 11月23日、SEDはホーネッカーの党規違反の調査、在野勢力との円卓会議の開催などを表明した。12月1日には人民議会で憲法第1条が改正されて、党の指導条項が削除され、国家を指導する政党としてのSEDの役割は終焉した。 12月3日、全国の各地区委員会の第一書記と政治局の合同会議が開催されたが、クレンツは各地区の第一書記から「指導部は全員辞職すべき」という突き上げを受け、続いて行われた緊急の中央委員会総会ではクレンツ以下政治局員・中央委員は自己批判の声明を採択して全員が辞任し、ホーネッカー、シュトフ、ミールケ元国家保安相ら旧幹部を除名した。そして、総会はエアフルト地区委員会第一書記のヘルベルト・クローカーを委員長に、モドロウの盟友ヴォルフガング・ベルクホーファー(ドイツ語版)・ドレスデン市長、法律家のグレゴール・ギジらをメンバーとする臨時党大会の準備作業委員会を選出し、SEDは事実上活動を停止した。クレンツは5日に国家評議会議長も辞任し、後任にはLDPDのマンフレート・ゲルラッハが就任。SEDは国家元首のポストも他党に譲ることになった。 アレクサンダー広場の抗議デモに集まった市民(1989年11月4日) 党員達に呼びかけるクレンツ(1989年11月8日)。クレンツの右にいるのがシャボフスキー 旅行自由化の政令を発表するシャボフスキー 党員集会で演説するクレンツ書記長(1989年11月10日)
※この「クレンツ書記長」の解説は、「ドイツ社会主義統一党」の解説の一部です。
「クレンツ書記長」を含む「ドイツ社会主義統一党」の記事については、「ドイツ社会主義統一党」の概要を参照ください。
- クレンツ書記長のページへのリンク