ギャンブル中毒と経済状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:42 UTC 版)
「ジョン・ビンガム (第7代ルーカン伯爵)」の記事における「ギャンブル中毒と経済状況」の解説
法廷での敗北は、ルーカンに挫折を味わわせた。裁判費用はおよそ2万ポンドと推測され、彼の経済状況は1974年末までに悲惨な状態になっていた。彼はひどく酒を飲み、煙草を立て続けに吸うようになり、友人たちに心配され始めるほどだった。アスピナルの母、レディ・オズボーンやその息子など、友人との酔っ払いながらの会話で、ルーカンは妻の殺害について話し合った。グレヴィル・ハワード(英語版)は、後に警察での供述書で、妻の殺害が彼をどれだけ破産から救うか、彼女の遺体がソレントでどう処理されるか、そしてどうやって彼が「逃げおおせるか」(英: how he "would never be caught")について、ルーカンがどれだけ語ったか述べている。ルーカンは母から4,000ポンド借り、マーシャ・タッカーには10万ポンドのローンを頼み込んだ。色よい返事を受けられなかったルーカンは、タッカーの息子に手紙を書き、ヴェロニカから子どもたちを「買い戻したい」("buy") 旨を説明したが、金は工面されなかった。彼は友人や知人を訪ねて回り、ギャンブル中毒に陥った彼の資金として、融資をしてくれる人がいないか探して回った。資本家のジェームズ・ゴールドスミスが5,000ポンドの当座貸しを保証したが、長年支払われないままになっていた。ルーカンはまた、慎重なエッジウェア・トラスト(英: Edgware Trust)にも融資を申し込んだ。申込後、彼は収入の詳細として、家族の様々な信託から年12,000ポンドあまりを受け取っていることを提示した。彼は5,000ポンドの融資を申し込んだが、それには担保を用意する必要があり、また3,000ポンドしか受け取ることができなかった。ルーカンの銀行4口座は、銀行家たちがうろたえるほどに貸し越されていた(クーツ(英語版)で2,841ポンド、ロイズ銀行で4,379ポンド、ナショナル・ウエストミンスター銀行で1,290ポンド、ミッドランド銀行(英語版)で5,667ポンド)。この時までに、ルーカンは以前よりも低い賭け金で勝負するようになってはいたが、彼のギャンブルは相変わらず自制が効かない状態だった。ランソンらが1994年に出した書籍では、1974年9月から10月だけで、伯爵の負債は5万ポンドに達していたと推測されている。 これらの問題にもかかわらず、1974年10月下旬から彼の品行は改善してきた。彼のベストマン(英語版)だったジョン・ウィルブレアム(英: John Wilbraham)は、ルーカンが露わにしていた子どもを取り返すという執念が弱まってきたことに気付いた。母とディナーを摂っていた時、彼は家庭問題の話を止め、代わりに政治の話を始めたという。11月6日、彼はおじのジョン・ビーヴァン(英語版)と会ったが、彼の精神状態は明らかに改善していた。この日の遅く、彼は21歳のシャーロット・アンドリナ・コフーン(英: Charlotte Andrina Colquhoun)と会い、彼女は「彼はいつも通りとても幸せそうで、不安がったり落ち込んでるというような様子は無かった」と述べている。彼はクラーモントでも、レーシング・ドライバーのグラハム・ヒルと共に会食した。この時、カジノは14時から4時までしか開いていなかったので、ルーカンは朝早くギャンブルに興じることがほとんどだった。彼は不眠症のために薬を飲んでおり、ランチタイム頃に起きるのが日課だった。しかし11月7日は日課を破り、朝早くに事務弁護士へ電話を掛け、朝10時半にはコフーンにも電話を掛けた。2人は15時にクラーモントで食事をする約束をしたが、ルーカンはこの時間に現れなかった。コフーンはクラーモントとラッドブローク・クラブ(英: Ladbroke clubs)、そしてエリザベス・ストリートを車で走り抜けたが、彼の車を見つけることはできなかった。ルーカンは、13時に芸術家のドミニク・エルウェス(英語版)、銀行家のダニエル・マイナートツァーゲン (Daniel Meinertzhagen) とクラーモントで約束していたランチもすっぽかした。 16時にルーカンはヴェロニカの家近くである、ロウワー・ベルグレイヴ・ストリートの薬局に立ち寄り、薬剤師に小さなカプセル薬の鑑定を依頼している。薬は不安やうつ症状に対するリンビトロール5(クロルジアゼポキシド)と分かった。ルーカンは妻と別離して以来同じような訪問を繰り返していたが、どこで薬を得たかは決して明かさなかった。16時45分、彼は友人で出版代理人のマイケル・ヒックス=ビーチ(英: Michael Hicks-Beach)に電話し、18時半から19時にかけて、エリザベス・ストリートにあるフラットで面会した。ルーカンはオックスフォード大学の雑誌に寄稿を頼まれた、ギャンブルに関する記事について助けてほしいと求めた。彼はヒックス=ビーチの家まで20時に車で送っていったが、この時の車は彼のメルセデス・ベンツではなく「古く、暗い色でみすぼらしいフォード」(英: "an old, dark and scruffy Ford")で、数週間前にマイケル・ストゥープ(英: Michael Stoop)から借りたフォード・コルセアだったのではないかと考えられている。20時半、彼はクラーモントに電話を掛け、グレヴィル・ハワードや友人とのディナー予約について確認している。ハワードは17時15分にルーカンへ電話し、劇場に行かないかと誘ったが、彼はこれを断り、代わりに23時にクラーモントで会おうと持ちかけた。彼はこれにも現れず、電話しても誰も答えなかった。
※この「ギャンブル中毒と経済状況」の解説は、「ジョン・ビンガム (第7代ルーカン伯爵)」の解説の一部です。
「ギャンブル中毒と経済状況」を含む「ジョン・ビンガム (第7代ルーカン伯爵)」の記事については、「ジョン・ビンガム (第7代ルーカン伯爵)」の概要を参照ください。
- ギャンブル中毒と経済状況のページへのリンク