カポネ後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 09:43 UTC 版)
カポネ逮捕後は、FBIの採用を待ったが、ネスの夢はジョン・エドガー・フーヴァー長官に阻まれる。元上司でシカゴ連邦検事のジョージ・E・Q・ジョンソン(George E. Q. Johnson)に推薦状を書いてもらうが、ネスもジョンソンもフーヴァーに嫌われていた。FBIが捕まえられなかったカポネを捕まえたネスたちにフーヴァーが嫉妬していたことも不採用の理由と言われている。 その後はシカゴおよびオハイオ酒類取締局の首席捜査官を歴任し、禁酒法廃止後の1935年12月12日にはクリーブランド地方政府の公共治安本部長に就任した。クリーブランド市はアル・カポネを負かした立役者と喧伝し、新聞の見出しにもなる。当時のクリーヴランドはギャングスター天国だった。ナイトクラブや賭博場の手入れを演出し、再び人気者になり、警察や消防の汚職一掃を陣頭指揮したが、当時発生していた「キングズベリー・ランの屠殺者(Mad Butcher of Kingsbury Run)」とよばれる悪名高き連続猟奇殺人事件を解決できず、そのことになると記者からの質問をはぐらかした。この事件は引退後も捜査し続けていた。また、犯行を事前に防ぐという名目で、治安が悪くホームレスなどが居住している一帯を焼き払っている。1938年には妻のエドナと離婚し、彼の評価は下落した。1938年後半、エヴァリン・マカンドールズ(Evaline Michelow)とケンタッキー州のグリーナップで極秘に結婚式を挙げた。1942年に飲酒運転で当て逃げ事故を起こし、治安本部長職を辞任。 ワシントンD.C.へ移って連邦政府で働いたのち、1944年に公職を辞して民間警備会社の会長職に就く。1946年1月31日、“ベティ”エリザベス・アンダースン(Elizabeth Anderson Seaver)と結婚する。ネスは3回目の結婚。息子を1人、養子に迎えた。1947年にクリーブランド市長に立候補し出馬するが、民主党候補の現職のトーマス・A・バーク(Thomas A. Burke)の3倍の選挙資金を集めながら、ネスの2倍近い票を集めたバークに惨敗する。 1951年、警備会社の会長職を解任されると電気部品のセールスマンや本屋の店員などを転々としながら地元の酒場に入り浸り、借金生活を送ったが、1953年、特殊紙材メーカーの職を得て収入を取り戻すと再び酒場に入り浸った。酒場では好んで密輸取締り時代の武勇伝を地元の客に語って聞かせたという。 1956年、当時UPI通信のスポーツライターだったオスカー・フレイリー(Oscar Fraley)に仕事関係の友人を通じて知り合い、武勇伝を披露する。興味を持ったフレイリーが、「カポネを追いつめた話を本にしてはどうか」と勧めたところ、ネスは「あなたが書いてくれないか」と応じた。自伝の題名は「The Untouchables」(ジ・アンタッチャブル)に決まり、ネスへのインタビューと彼が保管していた資料に基づき、フレイリーが執筆した。1957年、この本が出版される直前にネスは心臓発作で亡くなった。遺体はクリーブランドのレイクビュー墓地に埋葬された。ネスの遺した負債は、「アンタッチャブル」の印税により返済されたという。
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