カポネとの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 09:43 UTC 版)
ハーバート・フーヴァーは大統領就任後、財務長官アンドリュー・メロンに対しギャングのアル・カポネを摘発するよう厳命した。連邦政府はこれについて、二方向からのアプローチを試みた。すなわち所得税の脱税と、ボルステッド法違反である。ネスは後者、具体的にはカポネの酒の密造と違法流通に関する特別捜査班の編成・統括を任された。目的はカポネの酒の密造と違法流通を摘発し、カポネの収入源を断つことだった。 シカゴ役人ならではの綱紀の緩みのなかで、ネスは酒類取締局の全職員の記録を調べ、信頼に足るチームを作った。当初は50名あったものが、のちに15名、最後には11名に選りすぐられた。違法な蒸留酒製造所や醸造所への手入れが直ちに開始された。6ヶ月のうちに、価値にして100万ドル相当の醸造所を摘発したとネスは主張した。手入れにあたり、主に情報源となったのは広範囲にわたる電話盗聴だった。ネスの部下を買収しようとしたカポネの試みは、ネスに阻まれたうえ公にされ、メディアは彼らに「アンタッチャブル」(手出し出来ない奴ら)という渾名をつけるに至った。ネスは何度か命を狙われ、彼の親友が一人命を落としている。なおカポネとの戦いについては、あくまで彼の自伝にもとづくもので、裏付けがある訳ではない。 自伝では、ネスの妥協ない捜査はカポネを慌てさせたと語られている。これについては、「カポネ側の記録にネスの名前は出て来ない」と懐疑的な意見もあり、一方で「ネスの功績を過小評価すべきではない」と擁護する意見もある。裁判で本命となったのはフランク・ウィルスンやエルマ・アイリー (en) らの脱税捜査チームの方だった。1931年の連邦大陪審で、カポネは22件の脱税、5,000件のボルステッド法違反で告発されると、同年10月17日、脱税証拠22件のうちの5件によって懲役11年刑が宣告され、翌年収監された。ネスの集めた5000件の証拠は最終的にすべて却下され、罪状に無関係だった。ネスの旺盛な摘発行為は、極秘裏に進められた脱税捜査を気付かれないための囮だったと言われた。なお、脱税の決定的証拠となった組織の売上金明細をウィルスンにリークしたカポネ組織のエドワード・J・オヘアは後年、カポネを継いだシカゴギャングに暗殺された。
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