カフェ・アメリカの初代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:36 UTC 版)
初代への思いが断ち切れない川端は、自分の容姿が嫌われた原因かと考え、〈身体の与ふる気分多少関係あるべし。健康な青年体になりたしと刻々と思ふ〉と1922年(大正11年)4月4日の日記に綴り悩んだ。また、初代との写真を見ながら、〈いい子だつたのに、いゝ女だの念しきりなり。彼女の手紙読む。一時本当に我を思へるごとき文字の気配を思ふ。いい性質文に現はれたりと思ふ。哀愁水の如し〉と綴り、道ですれ違う娘が初代に見えたりした。 その後、初代が浅草区のカフェ・アメリカにいるという情報を鈴木彦次郎が葉書でよこし、川端は三明と共にその店に赴いたが、初代はあえて川端を見ないようにしていた。三明が翌晩に行って、権藤との一件を初代に問うと、初代は九州に行っていないと否定したらしいが、それは三明が川端を気遣っての報告のようであった。カフェ・アメリカで女給をしていた頃の初代は、「クイーン」と呼ばれて「浅草一の大美人がいる」と噂されるほど評判となっていた。カフェ・エランで女給をしていた頃の「赤いコール天の足袋をはいたチー坊」の少女の頃とはすっかり変っていた。 傷心を抱えた川端は、古日記や古手紙を携えて7月末から再び、伊豆湯ヶ島の湯本館(田方郡上狩野村湯ヶ島1656番地)へ行った。そこに1か月ほど滞在した川端は、大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)時代の寄宿舎での小笠原義人との同性愛や、一高2年の秋に初めて旅した伊豆で出会った踊子・加藤たみとの思い出を『湯ヶ島での思ひ出』として綴り、素直で無垢な好意や信頼を自分に寄せてくれた2人の存在を再確認することで、初代の〈不可解な裏切り〉によって〈潰えようとする心〉を支えた。この原稿107枚の『湯ヶ島での思ひ出』の草稿は、のちに川端の名作『伊豆の踊子』、『少年』に発展した。 1923年(大正12年)1月14日に、石濱金作と浅草へ行った川端は、映画『漂泊の姉妹』の看板の女優(栗島すみ子)が初代に似ているのに驚き、彼女が女優になったかと思って、伊豆の踊子をも彷彿とさせるその娘旅芸人姿に惹かれて映画を観た。石濱もその女優を、初代にそっくりじゃないかと言った。川端は「さうかなあ」とごまかしながら初代のことを思い巡らし、浅草に住みたい、カフェ・アメリカに行くために、質屋に出している洋服とオーバーを戻したいと考えた。 1月25日の雪の日、三明からインパネスを借りた川端は、石濱とカフェ・アメリカに行った。しかし初代はいなかった。その店の女給・信子によると、初代はカフェの女給を辞めて、岩手県の父親の元へ帰ったという話であった。 川端は〈そうか〉と心静まると同時に、落胆、失望の思いもするが、これまでの様々な自分の情けなさや、自分の服装がみじめで店に来るまで躊躇していたこと等を考え、〈下らぬことより、正しき心に自ら反くこと何回ぞや。静思せよ〉、〈彼女の激動、一年間の身境涯の変化には余も一半の責任あり。特に余の恋ひ渡りながら、女の腐つたやうに、うじうじせしこと、死すともわが心及び千代に謝しがたし〉と反省した。そして、もしも自分がもう一度、岩谷堂を訪ねて思いを打ち明けたら、再び初代が自分の方を向いてくれるかもしれない等とも考え、初代への様々な想いを日記に綴った。 彼女の帰れるは自然なり。彼女の心のため、魂のため、よきことなり。父のもと願くは静かに憩へ。静かなるくつろぎ、楽々しさ、のびのびしさこそ、千代によきもの、又余の与へんとしたりしもの。余、その(千代の)根を流るる、張り切つた、一本気な、美しき魂を信じ居りし。よき心あれ、よき心あれ。よき魂を護りて伸びよ。清純の情、余にみち、反省の心つよく、自らはげます心ともなりて、千代を思ふ。一念濁る心なく進まんと思ふ。(中略)彼女十五歳より十八歳、余廿二歳より二十五歳、すでに四年。運命の糸よ、遂に切れたりと云ふか。されど余の心に生きつゝある彼女をいかで消し得んや。 — 川端康成「日記」(大正12年1月25日付)
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