オーストリア帝国とは? わかりやすく解説

オーストリア帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/22 08:51 UTC 版)

オーストリア帝国
Kaisertum Österreich (ドイツ語)
1804年 - 1867年


国旗 国章
国歌: Gott erhalte Franz den Kaiser(ドイツ語)
神よ、皇帝フランツを守り給え

オーストリア帝国の領土(1815年)
公用語 ドイツ語オーストリア・ドイツ語バイエルン・オーストリア語
言語 ハンガリー語チェコ語ポーランド語ルテニア語ルーマニア語スロヴェニア語クロアチア語セルビア語イタリア語
国教 カトリック
宗教 ルター派カルヴァン派東方正教ユダヤ教
首都 ウィーン
皇帝
1804年 - 1835年 フランツ1世
1835年 - 1848年 フェルディナント1世
1848年 - 1867年 フランツ・ヨーゼフ1世
首相
1821年 - 1848年 国家宰相 クレメンス・ヴェンツェル・フォン・メッテルニヒ(初代)
1867年 - 1867年 閣僚評議会議長 フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイスト(最後)
面積
1804年 698,700km²
人口
1804年 21,200,000人
変遷
成立 1804年8月11日
神聖ローマ帝国の解体 1806年8月6日
ウィーン会議 1815年6月15日
普墺戦争 1866年6月14日
アウスグライヒ 1867年3月30日
通貨 マリア・テレジア・ターラー
先代 次代
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国
ザルツブルク選帝侯領
ハンガリー王国
ボヘミア王国
クロアチア王国
スラヴォニア王国
ガリツィア・ロドメリア王国
トランシルヴァニア公国
ドイツ連邦
イタリア王国
ドイツ連邦
オーストリア=ハンガリー帝国
ツィスライタニエン
トランスライタニエン
オーストリアの歴史

この記事はシリーズの一部です。
先史時代から中世前半
ハルシュタット文化
属州ノリクム
マルコマンニ
サモ王国
カランタニア公国
オーストリア辺境伯領
バーベンベルク家ザルツブルク大司教領ケルンテン公国シュタイアーマルク公国
小特許状
ハプスブルク時代
ハプスブルク家
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国
ハプスブルク君主国
オーストリア帝国
ドイツ連邦
オーストリア=ハンガリー帝国
第一次世界大戦
サラエヴォ事件
第一次世界大戦
両大戦間期
オーストリア革命
ドイツ=オーストリア共和国
第一共和国
オーストリア連邦国
アンシュルス
第二次世界大戦
ナチズム期
第二次世界大戦
戦後
連合軍軍政期
オーストリア共和国
関連項目
ドイツの歴史
リヒテンシュタインの歴史
ハンガリーの歴史

オーストリア ポータル
1855年のオーストリア帝国民族分布図

オーストリア帝国(オーストリアていこく、ドイツ語: Kaisertum Österreich、当時の公式表記は Kaiserthum Österreich)は、1804年の成立から1867年オーストリア=ハンガリー帝国への改組まで、オーストリアハプスブルク=ロートリンゲン家(以下、単に「ハプスブルク家」と呼ぶ)がオーストリア皇帝として支配した多民族国家である。

前身のオーストリア大公国や、ボヘミア王国ハンガリー王国などの同君連合国家群だった時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク帝国と総称される。

厳密には第一次世界大戦敗戦までオーストリア帝国は存続しているが、本記事ではアウスグライヒまでを扱う。

概要

17世紀初頭から続いた三十年戦争を経て成立したヴェストファーレン体制によって、オランダスイスの独立、神聖ローマ帝国内の諸邦に自治権が与えられるなど、神聖ローマ帝国の権力は低くなった。また、この体制によって、カトリック教会プロテスタント教会が対等な関係にあることが保証され、宗教国家としての神聖ローマ帝国は権威を失うこととなる。さらに18世紀オーストリア継承戦争七年戦争などによって、神聖ローマ皇帝の座を事実上世襲していたオーストリア大公国自体の弱体化などが重なったことによって、政体としての神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかとなった。

また、その後のナポレオン第一執政期において、ナポレオン戦争によってダメージを負ったハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がるオーストリア大公国を中核とする支配領域(ハプスブルク帝国)をもってオーストリア帝国を形成、帝室の勢力圏を再編成した。

オーストリア帝国の時代の前半はナポレオン戦争とその後のメッテルニヒ時代であり、後半は1848年諸国民の春」によるウィーン体制崩壊後のフランツ・ヨーゼフ1世時代前半である。この時代はまたドイツ近代国家の模索期で、「オーストリア皇帝を戴く大ドイツ主義」か、「プロイセン王を戴く小ドイツ主義」かで揺れ動いていた。広大な非ドイツ人地域の分離を前提とする大ドイツ主義はオーストリアには迷惑千万であり、さりとて自らが統一ドイツから除外されてしまう小ドイツ主義も論外、非ドイツ人地域も包含した中欧帝国構想は時代遅れというトリレンマ状態にあった。1866年普墺戦争にオーストリアは完敗して大ドイツ主義も中欧帝国構想も挫折、最終的にオーストリアは統一ドイツから除外される。また1848年革命に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ人に次ぐ大勢力であったハンガリー系(マジャル人)との妥協アウスグライヒ)を選択し、1867年オーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が発足した。

なお、二重帝国の成立後もオーストリア帝国は第一次世界大戦に敗戦するまで存続している。「オーストリア=ハンガリー帝国」とは、オーストリア帝国と、アウスグライヒによってオーストリア帝国から形式的に独立したハンガリー王国とによる同君連合の総称である。すなわち、アウスグライヒ以後もハンガリー王国以外の領域は引き続きオーストリア帝国であった。

領域

主要年表

以後の歴史はオーストリア=ハンガリー帝国#略年表を参照。

脚注

注釈

  1. ^ 代表的な通史・概説書『ドナウ・ヨーロッパ史』(山川出版社、1999年)の本文199ページにて「1847年のガリツィア蜂起」という記載があり要注意である。なお、「巻末年表」では1846年の項に「クラクフ蜂起」「ガリツィアの農民蜂起」記載。
  1. ^ 岩﨑(2017)p.277
  2. ^ 渡辺(2017)pp.61-62

参考文献

関連項目





固有名詞の分類

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