オーストラリア探検とタスマニアの発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/26 05:00 UTC 版)
「ジョン・ハンター (海軍軍人)」の記事における「オーストラリア探検とタスマニアの発見」の解説
ハンターは1788年初頭に、パラマタ川の探検のための遠征を率いた。この遠征は探検とパラマタ川の水深測定が目的で、パラマタ川沿いのアイアン・コーブ、ファイブドック湾、ヘンアンドチキン湾(英語版)に向かった。この探検は大きな意味を持った、それというのも、イギリス人とオーストラリア原住民が初めて出会ったのが、ワンガル族(英語版)が所有していたこの地であったからだ。1788年2月5日のことだった。ウィリアム・ブラッドレー(英語版)の航海日誌によれば、この原住民との接触はハンターが朝食を摂っている時のことで、それがこの郊外地の名前、ブレックファスト・ポイント(英語版)として残されている。ディクソン調査図書館にはこの遠征隊の地図の写しがあり、『シリウス号艦長ジョン・ハンターによる探検としての、ボタニー湾、ポート・ジャクソン、そしてブロークン湾の海岸と港の地図』(Chart of the coasts and harbours of Botany-Bay, Port-Jackson and Broken-Bay, as survey'd by Capt.n John Hunter of H.M.S. Sirius. )という見出しがつけられている。 ハンターは1788年の10月、喜望峰に物資を輸送するようにとの命令を受けた。ホーン岬を回って喜望峰へ向かい、1789年にニューサウスウェールズへ戻った。こうしてハンターは、世界を一周したわけである。この航海は艦に漏れが生じたためかなり困難なものとなり、しょっちゅうポンプで水を吸い上げなければならなかった。シリウスはその後修理され、多くの受刑者を乗せてノーフォーク島へ派遣されたが、目的地に投錨した時に猛烈な嵐に遭って、サンゴ礁に突っ込み、座礁した。乗員の多くがブリッグ船サプライでポートジャクソンへ戻り、ハンターを含むそのほかのものは、救出されるまで1年近くこの島で暮らした。ハンターと乗員数名は貸し出されたワークザームハイトで、長くつらい航海の後イギリスへ戻った。1792年4月にやっとポーツマスに着き、ハンターはシリウスを失ったかどで軍法会議にかけられたが、無罪放免された。その後ハンターは、自分の関心事である『アーサー・フィリップ総督の航海本以来の、ニューサウスウェールズと南太平洋での発見、ポートジャクソン、そしてノーフォーク島における歴史的な報告の記録』(An Historical Journal of the Transactions at Port Jackson and Norfolk Island, With the Discoveries That Have Been Made in New South Wales and the Southern Ocean Since the Publication of Phillip's Voyage)の出版準備に入った。1793年の初頭に出版されたこの本は、その年の後半には短縮版が登場した。この本の初版には、オーストラリア本島とタスマニアの間に海峡が存在する可能性の、もっとも初期の言及が見出される。126頁でハンターはこう述べている。「理由があるから信じる、この地には非常に深い湾または海峡のいずれかがあり、それが多分ファン・ディーメンの島(タスマニア)とニューホランド(オーストラリア)を分け隔てている。」 ハンターがイギリスに戻っていたその当時に、フランス革命戦争が起きた。ハンターは再びボランティアとして100門艦のクイーン・シャーロットに乗った、これは彼の昔からの保護者であるハウの旗艦だった。1794年6月1日、ハウは栄光の6月1日に参戦し、1795年までこの艦を旗艦とした。1793年7月にアーサー・フィリップがニューサウスウェールズ総督を辞任し、ハンターはその年の10月に総督に志願して、1794年1月に総督に任命された。さまざまな遅れが生じて、1795年2月にハンターはやっと出航することができた。ハンターを乗せたリライアンス(英語版)は1795年9月7日にシドニーに着き、9月11日に総督に就任した。
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