エリアルイメージ合成機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 01:58 UTC 版)
「オプチカル・プリンター」の記事における「エリアルイメージ合成機」の解説
東宝特殊技術課や円谷プロがオックスベリー社製のオプチカル・プリンターを購入する以前、あるいは以後の映像業界でも、エリアルイメージ合成機と呼ばれるオプチカル・プリンターの一種が、各社で重宝されていた。 これは、機材に付属している線画台にて作成したマスクをデュープ時に映像素材と合致させて、現像所に納入すれば翌日には合成カットが完成する仕組みである。構造自体は極めて単純ながら、合成時に必要な「雄マスク」と「雌マスク」の現像工程を省略して即座にデュープ処理できるのが最大の利点である。オックスベリー社製のオプチカル・プリンターだと、作成したマスクをパンクロマチック・フィルムで撮影し現像工程を施した上で、翌日のデュープ時に映像素材と合致させて、といった具合に日数的なロスが必要なのに対し、早く仕上がることから、整備面も含めたコストパフォーマンスの高さは劇場映画よりも、むしろテレビシリーズ作品の撮影スケジュールに向いていた。テレビでの具体的な使用例として、虫プロ商事が制作した『バンパイヤ』(1968-69年放送)が挙げられる。同作では同機を使用することで、実写映像とセルアニメーションの合成を多用することが極めて容易となった。 1956年に松竹系で公開されたイヴ・シャンピ監督の日仏合作映画『忘れえぬ慕情』で日本映画技術賞の特殊技術部門を受賞した川上景司は、松竹特殊技術課に備えられていたエリアルイメージ合成機を存分に使っている。 川上の弟子だった矢島信男は、同課の縮小から不要となった同機を手土産に、1959年には創設されたばかりの東映特殊技術課へと移籍した。矢島の合成機は同社の劇場映画やテレビシリーズ作品の数々にてフル回転することになる。その後、東映は1966年の『大忍術映画ワタリ』の撮影用にオックスベリー社製オプチカル・プリンターを購入、系列会社の東映化学工業に設置された。これによって、矢島の合成機はお役御免となった。 同機は、その後の特殊技術課縮小に伴って独立した、合成技師の山田孝へと譲渡される。元々は35ミリ用だったが、山田はそれを16ミリ用に改造した。そして、これを主力に「山田合成」という16ミリ合成専門の会社を設立、1977年に「チャンネル16」へと社名変更する。 「チャンネル16」による16ミリ合成は、16ミリフィルムに片側しかパーフォレーションがないことから、移動マスクや切り合わせ合成は、合成した画面がそれぞれ微妙にゆれてしまうという問題点があった。もっとも、この点も80年代後半からは大幅に改善され、テレビの画面で肉眼で見るうえでは、ほとんど画面の揺れがわからないほど微細なものにまでなっていた。 光線や稲光など線画の合成の完成度は年々高くなっていき、80年代後半以降は35ミリフィルムによる線画合成に匹敵するクオリティがあった。特にテレビ作品の場合、円谷プロでは合成カットのみ35ミリフィルムを使用していたが、それによって16ミリで撮影した他のカットとのフィルムの色調の変化が著しい場合もあった。しかし「チャンネル16」による80年代後半以降の線画合成は元々16ミリフィルムを使っているため色調の変化がなく、その点では35ミリによる合成より優れていたといえる。 山奥などのロケ地に35ミリ用カメラを持ち運ぶ労力が省けたことで、屋外での火薬効果やワイヤーアクションを多用した手持ち撮影でも、オプチカル合成のカット数を増やすことが可能になった。その手軽さのため、『超電子バイオマン』(1984-85年放送)以降の作品では、光線技などのオプチカル合成を乱発して予算を何百万も超過するなど想定外の副作用を招くことがあったと、東映の鈴木武幸プロデューサーは当時の苦労話を述べていた。 「チャンネル16」のスタッフは「映画工房」を経て「日本映像クリエイティブ」に吸収再編成された。デジタル合成が主流となった2000年にも、同社担当の『未来戦隊タイムレンジャー』(2000-01年放送)では、16ミリ仕様のエリアルイメージ合成機を用いた、昔ながらのオプチカル合成が使われ続けていた。 2001年、『百獣戦隊ガオレンジャー』の第6話を最後に、同社はデジタル合成専門の体制へと移行した。
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