セルアニメーション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 16:12 UTC 版)
「日本のアニメーション」の記事における「セルアニメーション」の解説
セルアニメーションとは透明なセル画の上に少しずつずらして描いた絵をコマ撮りにし連続映写したアニメーション。アニメーション制作における初のセルの使用は1914年のアメリカと考えられているが、日本においては高価であり切り紙アニメーションからの移り変わりとしてセルが用いられ始めた年代は主に1930年代と考えられ、中でもその初期において著名な作品として政岡憲三の『力と女の世の中』(1932年)がある。当時としては新しい音声付きの作品(トーキー)であり、部分的にセルが用いられたとされる。また、1930年代になると、複数のセルアニメーションが現存している。 セルアニメーションを含むアニメーション技術が大きく上昇した時代としては、その後に続く制作において軍部がスポンサーとなり制作会社が委託を受けた時代で、政府側から委託されたアニメーション制作はその内容に厳しい制約が課される一方で、潤沢な予算が確保され、統制品であったフィルム、高価なセル、多くのスタッフもそろえることができ、当時としての最新技術を実験・吸収することが可能であった。政岡憲三の下で技術を学び、『力と女の世の中』の制作におけるスタッフでもあった瀬尾光世はこうした背景において、『桃太郎の海鷲』(1942年)『桃太郎 海の神兵』(1944年)といった国産初の長編アニメーションを手掛けている。 戦後になると、一般へのテレビの普及が進む中で、アメリカから輸入されたアニメーションとは別に国産のテレビアニメーションも模索されたものの、アニメーション制作には多くの経費と人員がかかり、民間のみにおいて安定的にテレビシリーズとしてのアニメーションを放映することは難しい状況であったとされる。著名な漫画家であり自身が経営者でもあった手塚治虫が率いる虫プロダクションは、アニメーション制作における膨大な労力を解決するために、3コマ撮り(1秒間8枚)、止め絵、バンクシステムなど多くの省力化を併用することによって、「一話30分毎週放映」というスタイルを実現させた。また、このような手法を用いて作成された『鉄腕アトム』が視聴率では最大40%を超え、多くのキャラクターグッズを売り上げたことにより、テレビの商業アニメーションが成立する状況を作り上げた。逸話として、スタッフが手塚治虫の方針に「アニメーションとは言えない」と主張したのに対し、「私たちが作るのはアニメーションではなく、テレビアニメである」と応じたという。 しかし、このようなテレビメディアに適応した方式が全てであったわけではなく、フルアニメーションを基本としてたとされる東映動画スタッフの中でも、ジブリ作品を手掛けた宮崎駿や、ルパン三世などを手掛けた大塚康生は批判的であったとされる。例えば大塚康生は、「三コマ撮りとは言いますが、三コマに一枚の絵どこじゃなくて、止め、バンクの連続で、アニメは動かすものだと信じていた僕たちにとっては到底受け入れがたいものでした。」とする。毎週30分の商業アニメーションという量のために省力化のための手法をいくつも導入するのか、人員とコスト、時間は多くかかるものの滑らかに動くアニメーションを実現するのか、戦後の日本のセルアニメーションにも対立軸は存在してきた。 現在では、セルアニメーションは、省力化、効率化のためにデジタル制作に移行しており、かつての中心とされてきた商業アニメーションとしてのセル素材は使われていない。
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