ウルグアイ川パルプ工場事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 16:09 UTC 版)
「フライ・ベントス」の記事における「ウルグアイ川パルプ工場事件」の解説
詳細は「ウルグアイ川パルプ工場事件(英語版)」を参照 2003年にスペインの製紙会社のENCE(スペイン語版)が、ウルグアイ政府よりフライ・ベントスにパルプ工場を建設する許可を得た。また、2年後の2005年にはフィンランドの製紙会社であるボトニア(スペイン語版)が、同じくフライ・ベントスにおける自社工場の建設の許可を受けた。これらの二つの工場はウルグアイの歴史上最大の外国企業による投資であり、ボトニアの総工費12億ドルの工場だけで2,500人の直接および間接雇用を生み出し、国内総生産の2%を占める規模であった。しかし、工場建設予定地が川に隣接し、大気汚染や水質汚染への影響が懸念されたことから、工場建設の承認が発表されたわずか2か月後の2005年4月30日に、ウルグアイ川の対岸に位置するアルゼンチンのエントレ・リオス州グアレグアイチュ(英語版)の環境協議会によって組織された約10,000人のデモ隊が、グアレグアイチュとフライ・ベントスを結ぶリベルタドール・ヘネラル・サン・マルティン橋(英語版)に集結した。 ウルグアイ政府とアルゼンチン政府は、1975年にウルグアイ川の河川利用制度を定めたウルグアイ川協定を締結していた。アルゼンチン政府は環境汚染の問題に加えてウルグアイ政府が協定に基づく工場建設の許可を求めていなかったと主張した。一方ウルグアイ当局は、協定は許可の取得ではなく相手側への適切な情報の提供を要求しているに過ぎず、対話と通知がアルゼンチン側の異議なく行われたと反論した。さらに、パルプ工場で使用される技術はアルゼンチン側が主張する範囲における川の汚染の回避が可能であると主張した。 アルゼンチン政府は2006年5月4日にパルプ工場建設の中断を求める仮保全処置を国際司法裁判所(ICJ)へ要請したものの、同年7月13日にICJは要請を退ける決定を下した。国境の橋の封鎖を含む抗議活動は断続的に継続し、同年9月21日にENCEはフライ・ベントスへの工場の建設を断念することを表明した。その後、同社は同年12月13日に250キロメートル南方へ建設予定地を移すことを発表した。しかし、ボトニアは工場の建設を続行したため、同年11月3日にグアレグアイチュの環境協議会は新たに国境の橋の封鎖を行うことを決定した。同月の後半にスペインのフアン・カルロス国王の仲裁により両国間の交渉再開の場を設けることで合意したものの、両国は交渉の場において妥協することを拒否したために交渉は頓挫した。両国はフアン・カルロス国王に陳謝し、両国間で協議を継続することを約束した。 ウルグアイ政府は同年11月29日に国境封鎖の解除を求める仮保全処置をICJへ要請した。しかし、ICJは2007年1月23日にウルグアイ政府の要請を退けた。その後、同年11月9日にウルグアイ政府はボトニアのパルプ工場へ操業開始の許可を与えた。2010年4月20日、最終的にICJはウルグアイ側の工場建設に関するウルグアイ川協定に基づく手続義務に違反があったことを認める一方、環境保護規程の違反と工場撤去に関するアルゼンチン側の主張を退ける判決を下した。両国の大統領はICJの判決を受け入れ、パルプ工場の環境に対する影響に関してウルグアイ川行政委員会を通してモニタリング調査を行うことで合意し、同年6月2日にウルグアイ川の水質の監視および管理の責任について定める二国間の文書を作成することで合意した。また、同年8月30日には両国の外務大臣がパルプ工場をめぐる紛争の終結に関する合意文書に署名した。
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