ウィンザーとロチェスターの包囲戦
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「第一次バロン戦争」の記事における「ウィンザーとロチェスターの包囲戦」の解説
ウィンザー城とロチェスター城でも、それぞれ包囲戦が行われていた。ウィンザー城のロウアー・ワード(ウィンザー城の中庭部分。聖ジョージ聖堂に面している)は酷い損傷を受けたにもかかわらず、2ヶ月の包囲戦ののち体制派の騎士ら60名がまだ生き残っていた。(ヘンリー3世は、1216年になるとすぐに補修をさせた。さらにヘンリー3世は西側のカーテンウォールの防衛力も強化した(そのほとんどの部分は現存している)。この損傷は、30年近く前の1189年の時点における諸侯らの包囲攻撃でできていた可能性もある。 ジョン王は、1206年に115ポンドの費用を掛けてロチェスター城を修理させており、マグナ・カルタについての交渉をしている間に、ロチェスター城の先売権も有していた。だが、1215年5月、彼はカンタベリーの大司教であるステーブン・ラングトンen:Stephen Langtonに城の管理権を返還することを強要された。造反諸侯はウィリアム・ドビニー(en:William d'Aubigny (rebel))が率いる軍を城に送り込み、その城主であったレジナルド・ド・コーンヒル(en:Reginald de Cornhill)は抵抗せず開城、以後は造反諸侯の手に落ちていた。1215年10月11日、この城を奪還すべく、ジョン王は自ら包囲戦を開始した。 造反諸侯ら籠城側はロンドンからの増援を期待していたが、ジョン王はその途中の経路であるメドウェー(en:Medway)に掛かる橋を焼き落として増援を遮断するべく、火船を出した。ロバート・フィッツウォルターは王の作戦を止めるため、橋をめざしつつ戦ったが、最終的に撃退されて退却した。また、彼はロチェスター大聖堂で略奪行為を行い、価値のあるもの全てを持ち出すと、聖堂を馬小屋に使った。こう言った行為はラングトンから批難されている。ジョン王軍は5台の攻城兵器を使用し、カーテンウォールの破壊に成功した。こうしてジョン王軍は11月初めに城壁を越えてロチェスター城中に侵入した。同様の戦術は、南東の塔の攻略などについて引き続き行われた。城の屋根は大きな支柱によって支えられていたが、これは木製であった。1215年11月25日にジョン王は、司法長官らに対して、「昼夜を問わず、可及的速やかによく太った40匹の豚を輸送するように。豚は食用に適さないものを送れ。この豚は、わが軍が城を燃やすのに使う」という手紙を送り 、取り寄せた豚から採った油を使って支柱と屋根を燃やしてしまった。造反軍は砦のクロス・ウォールの後ろまで撤退せざるをえなくなった。攻城中に捕虜となった造反軍兵のうち、少数のものは城を出ることを許されたが、ジョン王は見せしめに彼らの手足を切り落としている。 ロチェスター城包囲戦は11月30日まで続いた。最終的に城は、食料が尽きたことによって完全に陥落した。ジョン王は造反軍全員を絞首するつもりで、豚と絞首台の記念碑を作らせようとしたが、家臣のサヴァリ・ド・モレオン(英語版)が説得し、造反者らへの絞首刑を思いとどまらせた。なぜなら、降伏したものを絞首刑に処してしまえば、ジョンが降伏した場合について“先例”ができてしまうからである(ただ実際には、以前ジョン王に仕えていたが寝返った弓手が1人だけ絞首刑に処されている)。捕らえられた造反軍兵は、コーフ城など王族が占拠していた城に閉じ込められた。この攻城戦について、バーンウェル修道院の歴史家 (Barnwell Priory) によれば、「あれほど激しい攻撃がなされ、また雄々しい抵抗がされた包囲戦を覚えている者は誰も生きていない。城に対して信頼を持っていたものは、ほとんどいなかった」と記録している。 翌年、ジョンが死去すると、破壊された城の修理はヘンリー3世が行うことになった。彼は1000ポンド以上を掛けて新しい厩舎と出入口を修復し、防衛力を強化するために水路に手を入れた。また、城壁内部の王族の住居の隣に新しい教会が建築された。現存する最も特筆すべき特徴は、新しい南東の塔である。これは最新の防衛的なデザインで作られており、投石などの飛び道具をこれまでより4分の3程度逸らせることができ、また土台を掘り下げて侵食させるのにたいして耐性がある(左の写真、要塞の右の隅を参照)
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