ウァレンティニアヌス朝とは? わかりやすく解説

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ウァレンティニアヌス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:48 UTC 版)

ローマ皇帝一覧」の記事における「ウァレンティニアヌス朝」の解説

詳細は「ウァレンティニアヌス朝」を参照 肖像名称生年誕生在位期間即位背景没年死因 ウァレンティニアヌス1世 FLAVIVS VALENTINIANVS AVGVSTVS 西ローマ 321年キバラエ(属州パンノニア364年2月26日375年11月17日 ユリアヌス側近ヨウィアヌス病死に伴い遠征軍から支持され皇帝即位宣言する帰国後は弟ウァレンス東方担当共同皇帝とし、蛮族侵入本格化する中で優れた軍功上げた375年11月17日 自然死 ウァレンス FLAVIVS IVLIVS VALENS AVGVSTVS 東ローマ 328年キバラエ(属州パンノニア364年3月28日378年8月9日 ウァレンティニアヌス1世の弟。兄の共同皇帝となり、その死後は兄の息子達後見人務める。ハドリアノポリスの戦いゴート軍に敗れて戦死する378年8月9日 ゴート軍との戦いで敗死 グラティアヌス FLAVIVS GRATIANVS AVGVSTVS 西ローマ 359年シルミウム属州パンノニア367年8月4日383年8月25日 ウァレンティニアヌス1世長男。父の存命中に西方担当共同皇帝として指名される叔父ウァレンス死後新し東方担当皇帝テオドシウス抜擢したマグヌス・マクシムス敗れて殺害される383年8月25日 マグヌス・マキシムスに敗死 ウァレンティニアヌス2世 FLAVIVS VALENTINIANVS INVICTVS AVGVSTVS 西ローマ 371年ミラノイタリア本土375年11月17日392年5月15日 ウァレンティニアヌス1世次男。父ウァレンティニアヌス1世没後、兄グラティアヌス共同皇帝として指名される392年5月15日宮廷死体として発見される392年5月15日 自殺または他殺

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ウァレンティニアヌス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 13:43 UTC 版)

西ローマ帝国」の記事における「ウァレンティニアヌス朝」の解説

皇帝ヨウィアヌス死後帝国は「3世紀の危機」に似た新たな内紛時期に再び陥った364年即位したウァレンティニアヌス1世は、直ち帝権を再び分割し東側防衛を弟ウァレンス任せた東西のどちらの側もフン族ゴート族はじめとする蛮族との抗争激化し、なかなか安定した時期実現しなかった。西側深刻な問題は、キリスト教化した皇帝に対して古代ローマ伝統宗教信仰する異教徒による政治的な反撥であったウァレンティニアヌス1世古代ローマ伝統宗教に対して比較穏健な態度示したが、その子グラティアヌス379年初頭ローマ皇帝として初めポンティフェクス・マクシムス (pontifex maximus)の称号止めている。 ポンティフェクス・マクシムス称号ローマ教皇移行し[いつ?]、382年にはローマ神官団 (pontifices) やウェスタ神殿巫女から権利剥奪しアウグストゥスによって設置されていた女神ウィクトリア勝利祭壇英語版)も元老院から撤去した

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ウァレンティニアヌス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 09:28 UTC 版)

東ローマ帝国の皇帝一覧」の記事における「ウァレンティニアヌス朝」の解説

詳細は「ウァレンティニアヌス朝」を参照 肖像名称生年誕生在位期間即位背景没年死因 ウァレンス FLAVIVS IVLIVS VALENS AVGVSTVS 328年キバラエ(属州パンノニア364年3月28日378年8月9日 ウァレンティニアヌス1世の弟。ヨウィアヌス帝の事故死により、ウァレンティニアヌス1世皇帝即位し、同帝は自ら西方となるとともに、弟ウァレンス共同皇帝東方帝)とした。ハドリアノポリスの戦いゴート人反乱軍敗れて戦死する378年8月9日 ゴート軍との戦いで敗死

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