イリノイ州立銀行
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「エイブラハム・リンカーンの前半生」の記事における「イリノイ州立銀行」の解説
リンカーンはクレイと同様に国内の銀行体系を連邦政府が制御することに賛成だったが、1835年までにアンドリュー・ジャクソン大統領がアメリカ合衆国国定銀行を実質的に潰していた。1835年、リンカーンはイリノイ州立銀行を認可する件で党派の枠を越えて民主党の銀行賛成派と協調した。内国改良の議論と同様、リンカーンは最初の選択に対する最良の代案を探した。歴史家でリンカーンの伝記作者であるリチャード・カーウォーディンに拠れば、リンカーンは次のように考えていた。 うまく規制された銀行は健全で融通の利く通貨を提供し、大衆を一面で硬貨の極端な規制と他面で紙幣のインフレから守る。公的資金について安全な保管場所となり、州の改良を行うために必要な信用の仕組みを提供することになる。法外な資金融資を終わらせることにも繋がる。 この銀行に反対する者は1836年から1837年の議会で銀行を閉鎖するため調査を始めた。1837年1月11日、リンカーンは銀行を支持し反対者を攻撃する初めての議会演説を行った。この演説でリンカーンは「無法で暴徒指導者的な精神が(中略)既にこの土地に溢れており、急速におそろしく激越なまでに広がって、これまで人々と資産を安全たらしめたあらゆる制度あるいは道徳的原則までもひっくり返そうとしている。」と非難した。 反対者達を完全に政治的階級にあると非難し、「少なくとも正直な者から長足の距離をおく」政治屋だと呼んだ。リンカーンは次のように述べた。 私は大胆な断定を矛盾の怖れ無しに行う。公職に就いていないあるいはそれを切望しない者は誰も銀行に如何なる欠陥も見いだしては来なかった。彼らの農園の生産物価格を2倍にし、そのポケットを健全な通貨で満たし、その操作で全ての者が喜んでいる。 ジャクソン大統領時代の西部人は一般にあらゆる銀行に懐疑的であり、イリノイ銀行が正貨支払を停止した1837年恐慌の後はこの傾向に追い打ちが掛けられた。リンカーンはそれでも銀行を擁護したが世評は銀行と信用保証の仕組みの失敗をあまりに強く結びつけ、通貨の切り下げや借入の差し押さえに発展するとして多くの政治的支持を生み出せなかった。 1839年、民主党は銀行に関する別の調査を行い、リンカーンはホイッグ党の代表として調査委員会に出席した。そこではリンカーンが主導し、正貨支払の停止は「制度そのものの有機的欠陥」よりも、制御できない経済状態に関わっているという結論を引き出した。議会による正貨支払の停止期限が迫り、民主党は1840年12月末の期限を延長する提議の回避を狙い休会を求める。リンカーンとその同僚達は定足数を割り込めば議決を不成立にできると2階の窓から飛び降りて議場を離れる行動に出た。しかしながら議長は彼らをも出席と見なし、「銀行は殺された」。 リンカーンは翌1841年には銀行支持の程度を落としながら、それでも支持する演説は州内で続けていた。リンカーンは「州の制度に対してうち続く戦いがあるのなら、(中略)早く終わらせるとそれだけ良いものになるだろう」と結論づけた。
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