イデオレアリスム - 詩論・演劇論
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「サン=ポル=ルー」の記事における「イデオレアリスム - 詩論・演劇論」の解説
戯曲『個人からなる登場人物たち』(中筋朋訳)または『個人の中の多数の人物たち』(内田洋訳)は、サン=ポル=ルーの詩論・演劇論を知る上で重要な作品である。この作品は、「喜びの時」である「生の右側」から来た若者と「苦しみの時」である「実存の左側」から来た老人が自らの運命に絶望し、互いに相手の運命を羨み、入れ替わりを望むが、いざ女神たちによって入れ替わりが完了すると、また同じ絶望に陥り、共に急流に身を投げるという筋書きである。これはサン=ポル=ルーのモノドラマ論に基づくものである。彼のモノドラマは一般的な意味でのモノローグ(独演劇)と異なり、人間の内的自我の諸相を複数の俳優が演じることで、主観的な存在としての人間が客観化され、観客との結合が生まれるとするニコライ・エヴレイノフ(英語版)のモノドラマ論に近いが、サン=ポル=ルーの場合は、「変幻自在の神プロテウス」、「プリズム」を通して見る世界、「切子面に映るイマージュ」の総体として「個人の中の全人間性」を「実現(レアリゼ)」することが重要になる。 さらに、このような彼の演劇論は、彼が提唱したイデオレアリスムに基づいている。詩人アンドレ・ロラン・ド・ルネヴィル(フランス語版)は、プラトンの観念論(イデア論)、ヘーゲルの観念論、ジョゼファン・ペラダンの薔薇十字団の教義などとの関連、および詩論としては、ドイツ・ロマン主義の詩人ノヴァーリス、フランス・ロマン主義詩人ジェラール・ド・ネルヴァル、アメリカ・ゴシック小説のエドガー・アラン・ポーとの語彙上の類似を指摘する。サン=ポル=ルーのイデーとは「破壊された原初の美」であり、美は「神の姿(フォルム)」である。したがって、「美の探究が神の探究につながり、美を示すことは神を示すことであり」、詩人の役割はこの「神を実現(レアリゼ)すること」であり、神の創造に対する「第二の創造」である。サン=ポル=ルーのイデオレアリスムとはこの意味での原初的な美・神の全体像の実現・実在化であり、先の演劇論に即して言うなら、切子面に映るイマージュとしての人間の内的自我の諸相の「統合(サンテーズ)の統合」、「人間のシンフォニー」である。こうした点から、また、詩におけるディオニュソス的隠喩から、サン=ポル=ルーはニーチェの『ツァラトゥストラ』の影響により生命主義的傾向を深めたという指摘もある。 サン=ポル=ルーはこうしたイデオレアリスムをイデオプラスティシー(観念の形象化)、五感の理論(五感のすべてを表現し、すべてに訴える詩・演劇)、「言葉の管弦楽編成」、マニフィシスム(壮麗主義)といった概念によって説明する。マニフィック(壮麗な、見事な)という言葉はもともとサン=ポル=ルーの口癖であったが、このために友人たちから「壮麗者サン=ポル=ルー」または単に「壮麗者」と呼ばれるようになり、これを彼自身が「イデオレアリスムを敢然と実践する詩人」の意味で用い、マニフィシスムはイデオレアリスムとほぼ同義に解されている。また、実現・実在化される前のイデーは「絶えず流動する夢の水」などに見られる「水」として、実現・実在化されたものは「氷」としてしばしば表現される。氷は解けて水になる。サン=ポル=ルーのイデオレアリスムは観念・物質、霊肉の二元論ではなく、「生成」であり「愛のめくるめき」であり、「ある絶対的な光、無知あるいは無意識から少しずつ発して、ついには徐々に自らを確認するに至る光」である。
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