アルバム「サン・シティ」、エイドへの参加とは? わかりやすく解説

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アルバム「サン・シティ」、エイドへの参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 08:32 UTC 版)

ボブ・ディラン」の記事における「アルバム「サン・シティ」、エイドへの参加」の解説

1985年にはUSAフォー・アフリカ参加し、「ウィ・アー・ザ・ワールド」のブリッジ部分リード・ボーカルをとった。また同年には大規模チャリティー・コンサートの「ライヴエイド」に、ローリング・ストーンズキース・リチャーズロン・ウッドとともにトリ出演しかしながら「風に吹かれて」途中でギターの弦が切れロン・ウッドギター交換せざるをえなくなるアクシデント発生ロン・ウッドエア・ギターとなった)。さらに、モニタースピーカー取り払われステージ裏では他の出演者大トリの「ウィ・アー・ザ・ワールド」を練習しはじめるなど最悪コンディションで、キースロンともなかなかかみ合わないなど、彼自身にとってもマスコミ評価の上でも最悪結果終わった。またボブ85年に、南アフリカアパルトヘイト抗議するレコードサン・シティ」にも参加している。同作にはキース・リチャードリンゴ・スタージョージ・クリントンボビー・ウーマックグランドマスター・フラッシュ、マイルス・ディヴィスらも参加していた。 ボブは、次なるチャリティー・コンサートファーム・エイド」でトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズバック依頼する。このステージを縁として、翌1986年 - 1987年共演ツアー実現し、後に大きな話題となるトラヴェリング・ウィルベリーズ結成にもつながってゆく。ハートブレイカーズとの公式音源ビデオ "Hard To Handle" に収録。また "Bob Dylan with The Heartbreakers" 名義で「バンド・オブ・ザ・ハンド」が発表された。助力仰いだ理由としては、1980年代セールス下降気味で、ボブ単独では大きなアリーナスタジアムでの公演難しくサンタナグレイトフル・デッドなどとパッケージを組むしかなくなっていた当時窮状、という側面もある。しかし、『リアル・ライヴ』(1984年)、『ディラン&ザ・デッド』(1989年)の2枚ライブアルバムは最低の評価受けたボブジェリー・ガルシア何年にも渡ってお互いに敬意払っており、デッドメンバーボブ作品聴いていることを秘密にはしなかった。ボブ流のやり方指示出さずキーリズム指定もないというもので、即興演奏を得意とするデッドには合っていた。 ボブは、トム・ペティつながりユーリズミックスデイヴ・ステュワートに「エモーショナリィ・ユアーズ ("Emotionally Yours") 」 "When The Night Comes Falling From The Sky" のミュージック・ビデオ制作依頼するボブ数年後ジョン・メレンキャンプにも依頼しているが、ミュージシャン映像制作依頼する理由は謎である。 また、1987年公開され出演映画『ハーツ・オブ・ファイヤー(Hearts Of Fire)』も不評と、この時期ボブ活動ことごとく不調であった。なお、『ハーツ・オブ・ファイヤー』のサントラにはボブの曲が3曲収録されたが、廃盤となっている。他に、ディズニー企画盤では "This Old Man" が、ウディ・ガスリー追悼アルバムには "Pretty Boy Floyd" が収録された。 1987年に、ダニエル・ラノワプロデュースによる『ヨシュア・トゥリー』を発表していたU2の、ワールド・ツアーロサンゼルス公演飛び入り参加ボノと「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「天国への扉」を歌ったボノ当時スタジオ録音悩んでいたボブに「ラノワなら彼を上手くプロデュースできるのでは」と発言している。 1988年にはロイ・オービソンジョージ・ハリスンジェフ・リントム・ペティと共に覆面インスタント・ユニット、トラヴェリング・ウィルベリーズ結成しアルバムトラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.1』をリリースツアー予定されていたが、12月6日ロイ・オービソン心臓発作死去したため、ツアーは幻に終わったその後デル・シャノン加えた新体制続行という噂があったが、デル・シャノン1990年2月8日拳銃自殺してしまう。この時期バンドに関して未だに詳細不明である。結局残された4人で2枚目のアルバムトラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.3』(1990年)をリリースしバンドは自然消滅した1989年には、ボノ進言招聘したダニエル・ラノワの好サポートによる『オー・マーシー』を発表ボブ自身性来持っている南部志向存分に引き出したが、セールス全盛期には遠く及ばなかった。2005年発売され自伝には当時レコーディングのことが詳細に記述されている。収録曲「モスト・オブ・ザ・タイム "Most of the Time" 」のミュージック・ビデオには別バージョン使われており、その音源プロモーションCDにのみ収録された。

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