アルバム「サン・シティ」、エイドへの参加
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「ボブ・ディラン」の記事における「アルバム「サン・シティ」、エイドへの参加」の解説
1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、「ウィ・アー・ザ・ワールド」のブリッジ部分でリード・ボーカルをとった。また同年には大規模チャリティー・コンサートの「ライヴエイド」に、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズ、ロン・ウッドとともにトリで出演。しかしながら「風に吹かれて」の途中でギターの弦が切れロン・ウッドのギターと交換せざるをえなくなるアクシデントが発生(ロン・ウッドはエア・ギターとなった)。さらに、モニタースピーカーを取り払われ、ステージ裏では他の出演者が大トリの「ウィ・アー・ザ・ワールド」を練習しはじめるなど最悪のコンディションで、キースやロンともなかなかかみ合わないなど、彼自身にとってもマスコミの評価の上でも最悪の結果に終わった。またボブは85年に、南アフリカのアパルトヘイトに抗議するレコード「サン・シティ」にも参加している。同作にはキース・リチャード、リンゴ・スター、ジョージ・クリントン、ボビー・ウーマック、グランドマスター・フラッシュ、マイルス・ディヴィスらも参加していた。 ボブは、次なるチャリティー・コンサート「ファーム・エイド」でトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズにバックを依頼する。このステージを縁として、翌1986年 - 1987年の共演ツアーが実現し、後に大きな話題となるトラヴェリング・ウィルベリーズ結成にもつながってゆく。ハートブレイカーズとの公式音源はビデオ "Hard To Handle" に収録。また "Bob Dylan with The Heartbreakers" 名義で「バンド・オブ・ザ・ハンド」が発表された。助力を仰いだ理由としては、1980年代はセールスも下降気味で、ボブ単独では大きなアリーナやスタジアムでの公演が難しく、サンタナやグレイトフル・デッドなどとパッケージを組むしかなくなっていた当時の窮状、という側面もある。しかし、『リアル・ライヴ』(1984年)、『ディラン&ザ・デッド』(1989年)の2枚のライブアルバムは最低の評価を受けた。ボブとジェリー・ガルシアは何年にも渡って、お互いに敬意を払っており、デッドのメンバーもボブの作品を聴いていることを秘密にはしなかった。ボブ流のやり方は指示を出さず、キーやリズムの指定もないというもので、即興演奏を得意とするデッドには合っていた。 ボブは、トム・ペティつながりでユーリズミックスのデイヴ・ステュワートに「エモーショナリィ・ユアーズ ("Emotionally Yours") 」 "When The Night Comes Falling From The Sky" のミュージック・ビデオ制作を依頼する。ボブは数年後にジョン・メレンキャンプにも依頼しているが、ミュージシャンに映像制作を依頼する理由は謎である。 また、1987年に公開された出演映画『ハーツ・オブ・ファイヤー(Hearts Of Fire)』も不評と、この時期のボブの活動はことごとく不調であった。なお、『ハーツ・オブ・ファイヤー』のサントラにはボブの曲が3曲収録されたが、廃盤となっている。他に、ディズニーの企画盤では "This Old Man" が、ウディ・ガスリーの追悼アルバムには "Pretty Boy Floyd" が収録された。 1987年に、ダニエル・ラノワプロデュースによる『ヨシュア・トゥリー』を発表していたU2の、ワールド・ツアーのロサンゼルス公演に飛び入り参加。ボノと「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「天国への扉」を歌った。ボノは当時、スタジオ録音に悩んでいたボブに「ラノワなら彼を上手くプロデュースできるのでは」と発言している。 1988年にはロイ・オービソン、ジョージ・ハリスン、ジェフ・リン、トム・ペティと共に覆面インスタント・ユニット、トラヴェリング・ウィルベリーズを結成し、アルバム『トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.1』をリリース。ツアーも予定されていたが、12月6日にロイ・オービソンが心臓発作で死去したため、ツアーは幻に終わった。その後、デル・シャノンを加えた新体制で続行という噂があったが、デル・シャノンは1990年2月8日に拳銃自殺してしまう。この時期のバンドに関しては未だに詳細不明である。結局、残された4人で2枚目のアルバム『トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.3』(1990年)をリリースし、バンドは自然消滅した。 1989年には、ボノの進言で招聘したダニエル・ラノワの好サポートによる『オー・マーシー』を発表。ボブ自身の性来持っている南部志向を存分に引き出したが、セールスは全盛期には遠く及ばなかった。2005年に発売された自伝には当時のレコーディングのことが詳細に記述されている。収録曲「モスト・オブ・ザ・タイム "Most of the Time" 」のミュージック・ビデオには別バージョンが使われており、その音源はプロモーションCDにのみ収録された。
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