アメリカンリーグ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 12:33 UTC 版)
「ミルウォーキー・ブルワーズ」の記事における「アメリカンリーグ時代」の解説
現在のチームはエクスパンション(球団拡張)によって1969年に創設されたシアトル・パイロッツが前身である。パイロッツはシアトルで1年だけ活動したが早くも財政的に行き詰まり、これをのちのMLBコミッショナー、バド・セリグが買収してミルウォーキーに移転させ「ミルウォーキー・ブルワーズ」に改称、ブレーブスも使用していたミルウォーキー・カウンティ・スタジアムを本拠地球場とした。尚パイロッツを失ったシアトル側は移転が不当であるとしてMLB機構を告訴。これに対しMLB機構は1977年の球団拡張でシアトルに球団(シアトル・マリナーズ)を設置するという条件を提示し、告訴は取り下げられた。 ミルウォーキー移転直後はシアトル・パイロッツ時代と同じくアメリカンリーグ西地区に所属していたが、1972年からはワシントン・セネタースがテキサス州アーリントンへ移転したことに伴い、そのテキサス・レンジャーズと入れ替わりにアメリカンリーグ東地区へ移動した。 1970年代は優勝とは縁のない弱小球団だったが、ロビン・ヨーント、ポール・モリター、セシル・クーパー、ゴーマン・トーマスらが台頭するなど徐々にチーム力が向上、1978年に初めて勝率を5割に乗せる。50日間に及ぶストライキの影響で前後期制となった1981年に後期優勝を果たすが、地区シリーズで前期優勝のニューヨーク・ヤンキースに敗れた。翌1982年には、両リーグトップのチーム本塁打216本の強力打線を武器に、95勝67敗で初の地区優勝。リーグチャンピオンシップシリーズでは西地区優勝のカリフォルニア・エンゼルスと対戦し、2連敗と追い込まれたが、その後3連勝で下し、初のリーグ制覇を成し遂げた。ワールドシリーズではチーム本塁打67本で両リーグ最下位のセントルイス・カージナルスと対戦し、3勝4敗で敗れた。1983年には球団史上初めて観客動員数が200万人の大台を突破した。 1985年には江夏豊がメジャー入りを目指しスプリングトレーニングに参加し、メキシカンリーグ出身の左腕、テディ・ヒゲーラと最後の一枠を争う。江夏はキャンプ終盤に調子を落とした事と36歳(当時)という年齢がネックとなり、メジャー入りは果たせず現役を引退、ヒゲーラはこの年15勝をあげる活躍を見せ、一躍メジャーリーグのエース級投手の仲間入りを果たした。 1987年はMLBタイ記録となる開幕13連勝と最高のスタートを切るものの、5月3日から19日にかけて12連敗を喫している。4月15日にはフアン・ニエベスが球団史上初となるノーヒットノーランを達成。またモリターが戦後アメリカンリーグ最長となる39試合連続安打を記録した。91勝71敗で地区3位に終わり、地区優勝を逃した。 1992年はトロント・ブルージェイズと4ゲーム差の地区2位に付けるが、それ以降は5年連続で勝率が5割を下回り、低迷が続く。1994年には3地区制導入に伴いアメリカンリーグ中地区に移動した。
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