アメリカンリーグ設立
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「バン・ジョンソン」の記事における「アメリカンリーグ設立」の解説
しかし、ジョンソンはメジャーリーグをもう一つ作るという、もっと大きな野望を持っていた。コミスキーは1894年にレッズを去った後、スーシティのチーム(コーンハスカーズ)を買取ったうえでセントポールに本拠を移していたが、このコミスキーの助けを借りてウェスタンリーグの拡大計画をスタートした。1899年シーズン終了後、ナショナルリーグ所属のボルチモア、クリーブランド、ルイビル、ワシントンDCの各チームが解散したが、ジョンソンはグランド・ラピッズ(その後のインディアンズ)のフランチャイズをクリーブランドに移した。また、セントポールにあったコミスキーのチームをシカゴに移した(これがその後のシカゴ・ホワイトソックス)。後者の移動は、アメリカン・アソシエーション復活の試みを抑制する動きであると考えたナショナルリーグからも支持された。1900年シーズンにはリーグ名をアメリカンリーグと改称したが、依然マイナーリーグのままだった。 1900年シーズンは大成功し、ジョンソンはリーグ会長契約の10年延長を得た。10月にナショナルアグリーメント(ナショナルリーグを唯一のメジャーとし、他のリーグをマイナーとする取り決め)から脱退した。1901年の1月28日にはアメリカンリーグがメジャーリーグとして運営されることを宣言した。そしてチームをボルチモア、ボストン、フィラデルフィア、ワシントンにも置いた。 バッファロー・バイソンズは新生アメリカンリーグの一員になるハズだった。フランクリン監督はジョンソンから「心配ない、バッファローは新リーグに入っている」と言われていた。だが、1901年の1月29日になって見捨てられ、代わりにボストンにフランチャイズが置かれた。ジョンソンは数ヶ月間こっそりとボストンの人々と交渉していただけでなく、ボストンに投資まで行っていたことが後に判明した。ジョンソンはワシントンのフランチャイズにも多額の投資をしており、利害関係が1903年まで続いた。
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