アメリカンリーグとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/19 13:55 UTC 版)
「ジョン・T・ブラッシュ」の記事における「アメリカンリーグとの対立」の解説
この頃からブラッシュは、当時スポーツ記者で後にアメリカンリーグ会長となるバン・ジョンソンから、頻繁に批判を受けるようになる。ブラッシュは後にジョンソンのウェスタンリーグ理事長就任を支援しているが、これは記者としてのジョンソンの影響力を減らす狙いがあったのではないか、と言われている。ジョンソンのウェスタンリーグが、結果的に1901年にアメリカンリーグとして「メジャーリーグ」を名乗るようになると、ブラッシュはナショナルリーグの運営委員長として、ジャイアンツのオーナーアンドリュー・フリードマンらと協働してアメリカンリーグと対立、ジョン・マグローらにナショナルリーグの監督職をオファーするなどし、当時のボルティモアの球団の運営を政治的に妨害する役割を負った。ボルティモア球団は1902年にニューヨークへ移転、翌年からニューヨーク・ハイランダースとなった。 その後ブラッシュは、レッズをギャリー・ヘルマンらのグループに180,000ドルで売却、フリードマンからジャイアンツの経営権を買い上げて主オーナーとなったが、1904年にジャイアンツがリーグ優勝した際には、長年の憎悪からかアメリカンリーグとのワールドシリーズ開催を拒否した。しかしこれは多方面から非難を受け、ブラッシュは翌年のワールドシリーズ復活のために、アメリカンリーグとの永続的な合意の形成を主導することとなる。
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