アッツ島の戦い
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1943年5月12日、アメリカ陸軍第7歩兵師団がアッツ島を日本軍より奪還するために上陸を開始した。日本軍守備隊の司令官だった山崎保代は、兵員数で1対5の劣勢にあった配下の部隊を山中に配置し、米軍の内陸への前進を一時的に遅らせた。日記の5月12日の記録では、米兵上陸後に日本兵が山の中へ移動したことが、「母艦機飛翔、我軍応射、霧低きも山頂は明瞭、山頂に退避す。空襲は十時ごろ頻繁。地上炸裂音を聴く、それは艦砲射撃なり。(中略) 一日中多忙。空襲、艦砲射撃、米軍の上陸」と記されていた。 5月14日、アメリカの大砲が、日本軍陣地をマークするためにリン煙幕弾を発射した。多くの日本兵とアメリカ兵は、その煙が化学兵器弾によるものだと思ったという。辰口は「夕方米軍はガスを使用せるも強風の為被害なし。」と記述していた。 彼の日記の記録によると、アメリカの艦砲射撃と空爆から逃れるために野戦病院を洞窟の中へ移さなければならなかったという。また、その後も病院と患者を数度退避させたことが5月17日の日記に記されている。
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アッツ島の戦い
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詳細は「アッツ島の戦い」を参照 大本営はミッドウエー作戦と並行してアリューシャン列島の一部を占領する作戦を立案した。ミッドウエー海戦は日本の敗北に終わったが、アリューシャン諸島は1942年6月7日にキスカ島、6月8日にはアッツ島を占領した。ミッドウエー海戦に勝利したアメリカ軍は、アッツ島、キスカ島に対して空爆、艦砲射撃を行った。アメリカ軍の攻撃を受け、アッツ島の守備隊はいったんキスカ島に移動したが、1942年10月、新たな部隊がアッツ島に再上陸する。アメリカ軍の攻撃のため、補給が十分行い得ない中、1943年4月18日に潜水艦に乗って山崎保代大佐がアッツ島守備隊の部隊長として赴任する。 執拗に続くアメリカ軍の攻撃のため、補給は断たれ、栄養状態は悪化していった。アメリカ軍は1943年5月12日、キスカ島と比べて攻略が容易と判断されたアッツ島に上陸を開始した。島内ではアメリカ軍に対して必死の抵抗が続いていたが、大本営はアッツ島守備隊の増援を断念し、5月23日には最後に至らば潔く玉砕するよう命令された。翌日、昭和天皇からの激励のお言葉が伝えられたが、守備隊の食糧、弾薬は尽きかけていた。5月29日には山崎隊長は大本営に最後の電報を送った後、残存部隊を率いてアメリカ軍に最後の攻撃を敢行し、玉砕した(アッツ島の戦い)。 第二次世界大戦参戦後、日本陸海軍は競うように重要な戦死者を称揚、神格化していく。まず海軍は真珠湾攻撃で戦死した9名の特殊潜航艇乗組員を九軍神として称揚する。すると陸軍は海軍に対抗するかのように航空隊の指揮官、加藤建夫を軍神として神格化した。このような流れの中、アッツ島守備隊の玉砕は楠木正成の湊川の戦いになぞらえるように賞賛され、山崎部隊長以下アッツ島守備隊員たちは軍神部隊とされ、「皇軍の神髄ここに発揮」「アッツの忠魂に続け」「アッツの復仇」が盛んに唱えられた。そしてアッツ島守備隊を称える曲や書物が次々と発表され、奈良岡正夫、三輪孝、山田貞実らがアッツ島の戦いを題材とした絵画を制作している。
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