ついに日本へ!
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 01:13 UTC 版)
第一次世界大戦前、ロンドンに数年間滞在していたカルリンは、外国語教育を通してインド人や日本人、中国人と知り合い、その際に自身のものとは異なる文化に接することとなった。そのことについて、「アジアにすっかり魅了されるようになった」と自伝で語っている。以降、実際に旅をしてそれらの文化を肌で感じたいという気持ちが彼女の中に生まれる。その後実際に日本、韓国、中国、および台湾を訪れた彼女にとって、そこで過ごした時間はこの上なく幸せなものとなった。 カルリンが来日したのは1922年6月上旬のことである。横浜に到着した彼女は、「日本人が大絶賛する小雨、詩情豊かな雨」に迎えられた。そこから彼女は東京に移動し、その後1年以上日本に滞在した。当初、彼女は極めて質素な生活を送っていたが、やがて状況は好転する。英語、フランス語、ドイツ語を多くの生徒に教えるようになり、東京の明治大学で語学講座を開講し、朝日新聞の一部記事を寄稿するようになった。また、多くの仕事の中でも彼女にとって最も重要なものとなったのは、東京のドイツ大使館での勤務である。そこで、彼女は多くの面白い人と接触することができた。特に、日本人の芸術家に魅了された彼女は彼らと多くの交流を持ち、伝統的な日本絵画などを学び始めた。そして、礼儀正しさ、自制心、深い考察力など、日本の文化、生活様式、自然の美しさなどの背後にあると彼女が考えたこれらの日本人の特質は、彼女の目には賞賛すべきものとして映り、深く忘れ難い印象を残した。カルリンは、外国人女性として最大限日本人の精神に近づくことができたと自負していた。 彼女は日本を広く回り、頂上までには行かずとも霊峰富士にも登山した。特に彼女の印象に残ったのは、かの有名な鎌倉の大仏であった。大仏の姿に圧倒された彼女は、同時に憂いを覚えた。大仏は「私たちの弱い心は、はかなさに縛られている」ということを思い起こさせたのだった。「不動の大仏の顔には、超自然的かつ悲惨な静けさがあった。そして、その口は『諸行無常の中に存在するものに自分を感動させるものはなく、私自身の経験から人間の切望する心は理解している。私はあなたが囚われ、あなたの思考に浸透しているその欺瞞を笑う。そして、あなたが涅槃への道を見出すまであなたを憐れむ』とでも語っているような、おどけた笑みをたたえていた」と言って、これまで見た仏像の中でこの大仏ほど仏教の本質を表現している仏像はないと彼女は語っている。 ドイツ大使ヴィルヘルム・ゾルフの意向で、当初の予定よりも長くドイツ大使館に勤務した彼女は、1923年7月1日、名残惜しそうに日本を離れた。「侮辱したり、傷つけたりする人は誰もいなかったと、断言できる唯一の国を私は去った」と語った彼女は、以降、旅の思い出を語るたび、日本のことを「私の愛する日本」と呼んでいた。
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