たま自動車時代から日産自動車時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:30 UTC 版)
「桜井眞一郎」の記事における「たま自動車時代から日産自動車時代まで」の解説
1952年(昭和27年)10月、プリンス自動車工業の前身である「たま自動車」の求人情報を学校から聞いた桜井は、清水建設の上司の引止めを振り切って転職。設計課に配属される。たま自動車の面接でも、実質的創業者だった外山保から「なぜ清水建設を辞めてウチのような貧乏会社を志望するのか」と質問され、「私は自動車をやるために志望しました。貧乏会社? 大いに結構」と啖呵を切ったという。 配属後、すぐに、プリンス・セダンのコラムシフトレバーの改良を任せられる。このレバーは折れやすくクレームが多発していた。この設計において上司の日村卓也と対立。強度を上げるために太くするべきという日村に対し、桜井は細くしてしなりを持たせるべきだと主張して改良を施した結果、件のシフトレバーのクレームやトラブルはすぐに解消したというエピソードがある。この櫻井と日村の対立は普通ならば遺恨を残してもおかしくない状況だが、日村は櫻井を叱責しながらも櫻井の主張に耳を傾け、尚且つ「アイツは将来モノになるヤツだ」と語っていたという。櫻井もまた「日村さんは人の話をちゃんと聞いてくれる人物」「尊敬出来る上司」と語っている。 スカイラインには初代から開発に携わり、2代目(S50系型)の途中から開発責任者(主管)となり、3代目(C10型・ハコスカ)、4代目(C110型・ケンメリ)、5代目(C210型・ジャパン)、6代目(R30型・ニューマン)、7代目(R31型・7th=セブンス)と一貫して開発責任者(主管)として指揮を執っていた。また、スカイラインの広告やカタログ、自動車雑誌にも頻繁に登場し、果ては地方ディーラーでのトークショーなども務めたため、日本の自動車エンジニアとしては高い知名度を得ており、設計の第一線から退いた晩年もスカイライン関係の著書の執筆や講演活動を行っていた。 しかし7代目(R31型・7th=セブンス)の開発終盤段階の1984年(昭和59年)に突然、病に倒れて入院することとなり、急遽桜井の後継者として、プリンス自動車時代からの仲間で一番弟子の伊藤修令にスカイラインの開発責任者(主管)としてバトンタッチした。桜井はスカイライン以外に、C230型、C31型ローレルの開発責任者(主管)を務めていたこともあった。 また、プロトタイプレーシングカーのR380 - R383シリーズ(1966年 - 1970年)の開発にも携わり、日本グランプリ優勝3回という成績を収めた(プリンス時代1回、日産時代2回)。これらのマシンの試走時には自らステアリングを握ることもあった。
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