その他の救出説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:43 UTC 版)
「アナスタシア・ニコラエヴナ」の記事における「その他の救出説」の解説
この他にはロシア皇室の近衛兵を務めていたピョートル・ザミアトキンという人物が他の家族の殺害後にアナスタシアと彼女の弟アレクセイをブルガリアの小さな村に避難させたと語った。ザミアトキンによるとアナスタシアはエレオノーラ・クルーガー(英語版)という名で生活し、1954年に亡くなった。また、アナスタシアとその姉マリアであると主張する2人の若い女性が1919年にウラル山脈の奥地にある山村で司祭によって匿われ、1964年に亡くなるまでこの地で修道女に姿を変え、怯えながら2人一緒に暮らしたという話が伝えられている。それぞれアナスタシア・ニコラエヴナとマリア・ニコラエヴナの名で埋葬された。 1918年8月初め、ペルミに投獄されていたエレナ・ペトロヴナ(アナスタシアの遠いいとこにあたるイオアン・コンスタンチノヴィチの妻)のもとに警護兵がアナスタシアと名乗る少女を連れて来て、本当に皇帝の娘なのかどうか尋ねた。ペトロヴナがその少女を知らないと答えると、警護兵は少女をどこかへ連れ去ったという。1918年9月にペルミ北西の鉄道駅、第37引込線で逃亡を試みた若い女性が再び捕らえられたことも報告されている。目撃者はマクシム・グリゴリエフ、タチアナ・シトニコフ、フョードル・シトニコフ(タチアナ・シトニコフの息子)、イヴァン・クークリン、マトリョーナ・クークリナ、ヴァシリー・リャボフ、ウスチニア・ヴァランキナ、パーヴェル・ウトキン(事件後に女性を診察した医師)の8人である。白軍調査官はこのうちはっきり娘の顔を見たと証言した4人に別個に皇帝一家の写真類を見せたが、いずれも目撃した娘に似ている女性としてアナスタシアを指差したという。また、ウトキン医師はチェーカーのペルミ支部で診察した女性の名前を聞いたところ「私は陛下の娘のアナスタシアです」と答えたことを白軍調査官に語っている。ウトキンは名前のアルファベットの中からどれか一文字を使ったらいいだろうという指示で処方箋に「N」という文字を書き込んだ。のちに白軍調査官はこの処方箋を支部近くにある薬局では無く、支部からは少し不便な場所にある地方評議会の薬局で発見した。この他にも1918年7月17日の一家殺害事件の後の数ヶ月間にアナスタシアと彼女の3人の姉、母親アレクサンドラと見られる女性5人をペルミで目撃したという証言が何例も報告されているが、近年ではそれらの証言は信憑性の低い噂に過ぎないと広く考えられている。一家全員が殺害されたという事実を隠すために意図的に偽情報が流されていた。 アナスタシアの生存の噂はボリシェヴィキの兵士やチェーカーが逃走した彼女を見付けるために家や鉄道を捜索していたというほぼ同時期の複数証言によって潤色がなされた。1919年春にアナスタシアと見られる大公女の1人が逃走したという新しい証言がしきりに出てくるのを白軍の調査官が発見している。 ブレスト=リトフスク条約の調印に尽力した在露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ(ドイツ語版)は「皇帝の運命はロシア人自身が決めることだ。我々の関心は当面、ロシア領内にいるドイツの(血を引く)大公女達の安全にある」との見解を表明していた。1918年8月29日にロシア側が皇帝の家族を取引材料として監獄に囚われの身となっていたドイツの革命指導者カール・リープクネヒトの釈放を求めていた。ところが、それから一ヶ月も経たぬうちにロシア側はこの問題を避けるようになっていき、実は一家全員揃って7月にエカテリンブルクで殺害されていたのだと見られるようになった。
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