いじじょうあととは? わかりやすく解説

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伊治城跡

名称: 伊治城跡
ふりがな いじじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 宮城県
市区町村 栗原市
管理団体
指定年月日 2003.08.27(平成15.08.27)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日 平成17.07.14
解説文: 伊治城跡は、奥羽山脈から東に派生する築館丘陵の裾部にある、北上川支流形成した河岸段丘立地する古代東北地方城柵遺跡である。『続日本紀』によれば神護景雲元年767)に設置され律令政府による古代陸奥国経営の重要拠点一つであり、国府多賀城北方50km位置する
 遺跡所在地について江戸時代から多く論争があったが、昭和52年から54年宮城県多賀城跡調査研究所、昭和62年から現在までの、築館町教育委員会による発掘調査位置確定し具体的な内容明らかになった。また、多賀城跡出土漆紙文書により、当時は此治城と呼んでいたという説も出されている。
 遺跡南北約900m、東西約700mの範囲にあり政庁内郭外郭からなる存続年代は、8世紀から9世紀にかけてである。政庁南北約60m、東西約55mの規模で、内郭中央部所在する周囲基底部3m弱の築地塀区画し南面中央で門を検出している。中央やや北よりに位置する正殿中心に前殿後殿脇殿配した構成で、I期からIII期にわたる変遷がある。内郭外郭内の東南よりにあり、南北約240m、東西約180mの規模で、周囲基底部3mほどの築地塀区画する調査進んでいる西北部分では、「コ」字形配した掘立柱建物群を検出しており、実務的官衙考えられる外郭独立した段丘地形利用した不整方形をなし、基底部8m程度土塁と、幅約10mの大溝周囲画しその内施設としては、主に竪穴住居検出している。各期の年代は、I期創建から奈良時代後半で、II期終末は、建物火災によって全て焼失していることから、伊治君呰麻呂乱の発生した宝亀11年780)におくことができる。III期宝亀11年から廃絶までである。
 出土遺物には土器、瓦等があるが、外郭南東隅の竪穴住居から出土した中国式の弓「弩」が注目される。これは我が国初めての発見事例であり、律令時代兵器実態解明する上で貴重な資料である。
 伊治城跡は、政庁内郭外郭三重区画からなり、これは城柵遺跡としては 払田柵跡類例があるだけの稀少事例である。また、政庁儀式的な施設内郭実務的官衙域、外郭居住域と、それぞれの区画性格具体的に明らかになっている。このように、伊治城跡は東北地方における古代律令体制成立官衙構造具体的に知る上で極めて重要である。よって、史跡指定し保護図ろうとするものである



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