『航空ジャーナル』での活動
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「青木日出雄」の記事における「『航空ジャーナル』での活動」の解説
『航空情報』編集長を経て、1974年(昭和49年)には月刊誌『航空ジャーナル』を創刊し、社長に就任した。 1971年のニクソンドクトリン以来米軍戦闘機の配備が無かった三沢飛行場にF-16が配備された際にも解説を行ったが、ソ連が「対抗措置をとらざるを得ない」と通告してきたこと、戦術核を搭載可能なこと、配備前より在日米軍の戦力が優越していることなどを根拠に「軍縮のための話し合いをソ連に呼びかけるべき」として反対の意見を表明している。 テレビ出演時に自身がガンであることを告白。病床にあっても健筆を揮い、死去時には主筆の任にあった。 1985年(昭和60年)8月の日本航空123便墜落事故では、深い専門的知識で断片的情報を的確に読み取り、いち早く原因が人災であることを指摘して注目を集めた。またそれ以外においても1983年(昭和58年)の大韓航空機撃墜事件、1986年(昭和61年)のチャレンジャー号爆発事故、チェルノブイリ原子力発電所事故においてもニュース番組に解説者として出演し、「パニック評論家」との異名をとった。 軍事アナリストの小川和久が週刊現代記者時代に冷戦時代のソ連海軍原子力潜水艦の日本周辺での動静を描いたノンフィクション『原潜回廊』は、青木のもとに通い詰めてできた作品。また、朝日新聞の田岡俊次も「青木門下生」で、フォークランド戦争の開戦日とその理由を青木とウォーゲームをしながら的中させた。 悪性リンパ腫(判明時において、手遅れの病状であった)により、1988年(昭和63年)死去。享年61。 「航空ジャーナル」の第3代編集長の中村浩美は甥。中村の後継で、最後の編集長となった長男青木謙知も、航空評論家を継いでいる。ノンフィクションライターの武田頼政は航空ジャーナル末期の社員の一人である。
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