「若竹」開業とは? わかりやすく解説

「若竹」開業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 04:34 UTC 版)

阿部定」の記事における「「若竹」開業」の解説

1967年昭和42年)、62歳の頃、秋葉の家を離れ清水社長から出資してもらい、台東区竜泉に「若竹」というおにぎり屋を開店した。店の裏6畳間は定の住居であった実際におにぎりを買いに来る客はほとんどおらず、店には定と三味線を弾き料理をする女性がおり、カウンターで酒を飲ませるであった若竹には浅香光代芸能人のほか、有名力士相撲部屋親方国会議員阿部定事件担当した法曹界人間等もたびたび訪れており、特に事件当初より定に心酔し土方巽常連客であった1956年昭和31年)、親代わりであった秋葉死去1968年昭和43年2月には妻ハナ死去したこの頃から定は死にたい考えるようになり、客にぽつりと「あのバス事故のように誰だ身元わからないまま死にたいわ」などと話すようになる1969年昭和44年)、店の常連であった土方が「僕に定さんの清らかな魂を写してくれ!」と懇願し二人で写真撮影している(外部リンク参照)。1969年昭和44年)に製作され映画明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』に63歳定本人が出演しており、「そうね、人間一生一人じゃないかしら、好きになるのは。ちょっと浮気とか、ちょっといいなあと思うのはあるでしょうね、いっぱい。それは人間ですからね。けどね、好きだからというのは一人…(以下略)」と言葉を残している。世間から事件好奇心の目で見させない真実伝え映画にするということ約束した上で出演であったという。 また、「星菊水」「若竹」共に店の客からの評判は「江戸っ子らしく気風のいい優しい人」と評判良かったが、事件には一切触れることはせず、仕事仲間にも当時のことを語ることはほとんどなかった。一方で事件当時知っている警察関係者司法関係者が店にやってきて金をせびった身体要求することもあり、定は用心深くなっていった1970年昭和45年3月、定は若竹から忽然と姿を消す。店を手伝っていた女性病気になり、一人で店を切り盛りしていたが彼女も体を壊し世話をしてくれた年下バイセクシャル恋人に店の金を持ち逃げされ、店を閉じて借金ある程度清算したが、どうしても残りの金を工面できず、関西行き自殺考えていたが、様子がおかしいと気づいた芸者説得され東京戻ってきたとされている。

※この「「若竹」開業」の解説は、「阿部定」の解説の一部です。
「「若竹」開業」を含む「阿部定」の記事については、「阿部定」の概要を参照ください。

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