「敬虔・敬神」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 03:59 UTC 版)
本篇では、「敬虔・敬神」概念の明確化を巡って、神学者エウテュプロンを相手に、ソクラテスによる執拗な追及・問答が繰り広げられる。 作中、「単一の相」を持った普遍的な「敬虔・敬神」概念(の定義)は存在するという前提の下、「敬虔・敬神」の定義として、 「罪を犯し、不正を働く者を訴え出ること」 (← ソクラテス「具体的過ぎる、普遍的規定ではない」) 「神々に愛されるもの」 (← ソクラテス「ある神々が愛するものでも、別の神々が愛さないこともある」)「全ての神々に愛されるもの」 (← ソクラテス「「敬虔なもの」と「愛されるもの」の間に必然的な対応関係が無い」) 「正しいもの」 (← ソクラテス「「敬虔なもの」は「正しいもの」の内の一部分に過ぎない」)「「正しいもの」の内、神々に対する世話(奉仕・贈り物・請願)に関わる部分(の知識)」 (← ソクラテス「神々は人間の奉仕を必要としない」) 等が提示されるが、概念の明確化を執拗に追及するソクラテスによって、ことごとく提示された諸定義の欠陥が顕にされ、堂々巡り・行き詰まり(アポリア)に陥ってしまう。 『ソクラテスの弁明』『クリトン』『ゴルギアス』等の対話篇、あるいはクセノポンの『ソクラテスの思い出』『ソクラテスの弁明』等にも述べられているように、ソクラテスにとっては、「敬神的であること」「人々に対してのみならず、神々に対しても不正を行わないこと」が、重大な倫理的指針であった。他方で、ソクラテスが公訴された罪状が「涜神罪(神を冒涜した罪)」であったことからも分かるように、アテナイの保守的な大衆の社会的な拠り所もまた、神々(に関する伝統・慣習)であった。 この対話篇では、その双方の共通の鍵とも言える「敬神」とは一体どういうことなのかについての検討・探求が為され、 「(付随的に全ての神々に愛されもする)神々に対する正しさ」であり、同時にそれは、決して「神々と取引をする」ような性質のものではない。 という暫定的な結論に至る程度で、議論が終えられている。 そして、この「神々に対する正しさ」とは何であるかについては、『饗宴』『国家』『パイドロス』『ティマイオス』『法律』といった中期・後期対話篇において、 「真・善・美」の追求・探求。 「魂」の中の「神的な部分」である「理知」の力を発揮させ、可能な限り「神に似よう」と心がけること。(※なお、こうした「真・善・美」と「神」という2つの目標の「分裂/ズレ」を、修正/統合する (更には、後期対話篇『パルメニデス』で提示された、「イデア論」の矛盾/難題を抹消/解消する) 意味も込め、後期対話篇『ティマイオス』においては、通常の神々 (やイデア) の上位に、「父なる原初神/創造神」かつ「善のイデアの神格化」である「デミウルゴス」(という統合的な「究極原因/究極目標」) が、提示されることになる。) であると説明されることになり、本篇『エウテュプロン』は言わば、そうした中期・後期対話篇に対する伏線の役割を果たしている。 なお、本篇と同様に、「敬虔・敬神」について扱った作品としては、真偽の論争がある『アルキビアデスII』がある。
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