「俘虜送還国民運動に対する提言」
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「蜷川新」の記事における「「俘虜送還国民運動に対する提言」」の解説
蜷川は雑誌『経済往来』1952年8月号に掲載した「俘虜送還国民運動に対する提言」等でソ連や中共による俘虜の長期抑留を合法であるとして擁護し、抑留者の日本への早期帰還を求める各種運動を批判する論説を展開した。このことに係る蜷川の論拠とそれに対する反論は以下のとおり。 ハーグ陸戦条約第20条に「平和克復の後は、成るべく速に、俘虜をその本国に帰還せしむべし」とあり、蜷川は「平和克復」を講和条約が双方の政府によって批准された後と定義し、俘虜送還国民運動については「日本人が未だ平和成らず降伏時中に過ぎなかった時代に、敵国に向かって、俘虜送還を叫び建てたことは、国際法の無視であったことは誠に明白である。いづれの敵国も、日本人の不法の要求に応ずる義務はなかったのである」「俘虜の問題は、昔から、国際法によって、処理されているものである。その国際法を離れて、一方の国の人のみが、何を叫んだところで、その声は先方には通じないのである。声のみは先方に聞こえた所で、それは取り容れないのである。日本人は、その点についての慎重な態度を持することが、若しも日本人に、文明人の自信があるならば、必要なのである。七年以来、日本の政府は、少しも、その重点について、注意を払っていなかった。(俘虜送還を訴える国民の声を報じる)日本の新聞は、毫もこの文明意識を有していなかった。」などと断じている。これに対し、若槻泰雄は「もともと捕虜の送還を交戦中はしないという慣習は、それが再び戦力として使用されるのを防ぐためであり、ハーグ条約の捕虜送還に関する規定もその国際的慣習が基礎になっているのだから、『平和克復の後』という文言も、実質的に戦争行為が終了した後、解釈するのが自然だ。まして日本はポツダム宣言で全ての軍隊が解体されており、捕虜を送還したところで、それが再び戦力化する恐れはあり得ないから、蜷川解釈は全くの牽強付会というしかない」と反論している。 ポツダム宣言第9条を「日本の軍隊は、完全にその武装が解除された後には、その過程に帰還することを、許される。但し、平和な且つ生産的な生活を送る機会が来たことを条件とする」と訳し、「日本の軍人は、完全に武装解除の後は、俘虜とされる。そうして、平和産業に従事する機会を得たならば、自己の家庭に帰還することを許されるというだけのことである」とした。これに対し稲垣武は9条の英語の原文は"The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives."であり、with以下は絶対的限定条件を指示するものではなく、「日本国軍隊は完全に武装化を解除されたる後各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」と訳すべきところを蜷川が意図的に"誤訳"したものだとしている。 更に蜷川は、「唯だソ連と中共の領土内に留まつている日本人に限り『日本に送還せよ』と日本人が叫ぶことは、どういう理由に依るのであるか、西伯利亜から帰還した日本人は、沢山にある。それらの人々は、その生活は、中流生活であり普通であったと正直に談っている。その労働は、規則正しく行われた、と談っている。そのことを、書いて発行している人さえもいる。それであるから、中共とソ連に限り、人間並みの取扱を受けずにいると考えることは、全く事実無視の謬見である。そのような謬見に迷つていることは、その人のために、不名誉である」と断じている。
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