「ユダヤ人問題の最終解決」
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「アドルフ・アイヒマン」の記事における「「ユダヤ人問題の最終解決」」の解説
本人の証言によるとアイヒマンは、1941年8月から9月頃にラインハルト・ハイドリヒの口から総統アドルフ・ヒトラーの命令によりヨーロッパのユダヤ人がすべて絶滅させられることになったのを知らされたという。さらにこの時、ハイドリヒからポーランド総督府領ルブリンの親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクの指揮下で行われているユダヤ人虐殺活動を視察することを命じられ、ルブリンへ赴き、トレブリンカ(後にここにトレブリンカ強制収容所が置かれる)でガス殺を行う建物を視察した。 ついでアイヒマンの直属の上官であるゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーからの命令でポーランド西部地域のクルムホーフ(ポーランド語でヘウムノ。ここにはヘウムノ強制収容所がつくられた)で行われていたガストラックによるガス殺を視察し、またその後にはミンスクでのアインザッツグルッペンのユダヤ人銃殺活動の視察をした。さらに再度ルブリンのトレブリンカへ派遣されてガス殺を視察することとなった。 アイヒマンは後にイスラエル警察からの尋問に対して、これらの視察について「強いショックを受けたこと」や「正視できなかったこと」を強調している。アドルフ本人の証言によるとレンベルクの親衛隊司令官や直属の上官ハインリヒ・ミュラーに「あれでは若い兵士たちをサディストにするだけだ」と抗議を行ったという。 1941年11月に親衛隊中佐に昇進。しかし以降の昇進はなく、アイヒマンの階級はここで止まっている。1942年1月20日にハイドリヒの命令で関係各省庁の次官級担当者がベルリン高級住宅地ヴァンゼーに集まった、いわゆるヴァンゼー会議に議事録作成担当として出席し、ユダヤ人を絶滅収容所へ移送して絶滅させる「ユダヤ人問題の最終解決」(=虐殺)政策の決定に関与した。アドルフ本人もこの会議で絶滅政策が決定されたことを認めているが、アイヒマン自身は会議の席上で一言も発言しておらず、出席者の誰からも気にとめられることもなく、ただタイピストとともにテーブルの隅っこに座っていただけだと証言している。 この会議後、アイヒマンは、ゲシュタポ・ユダヤ人課課長としてヨーロッパ各地からユダヤ人をポーランドの絶滅収容所へ列車輸送する最高責任者となる。1942年3月6日と10月27日に行われたヴァンゼー会議に続く二度の最終解決についての省庁会議はアイヒマンが議長を務めている。 1942年3月から絶滅収容所への移送が始まったが、その移送プロジェクトの中枢こそがアドルフ・アイヒマンであった。総力戦体制が強まり、1台でも多くの車両を戦線に動員したい状況の中でも交通省と折衝して輸送列車を確保し、ユダヤ人の移送に努めた。続く2年間にアドルフは「500万人ものユダヤ人を列車で運んだ」と自慢するように、任務を着実に遂行した。 アイヒマンの実績は注目され、1944年3月には計画の捗らないハンガリーに派遣される。彼は直ちにユダヤ人の移送に着手し、40万人ものユダヤ系ハンガリー人を列車輸送してアウシュヴィッツのガス室に送った。1945年にドイツの敗色が濃くなると、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーはユダヤ人虐殺の停止を命令したが、アイヒマンはそれに従わずハンガリーで任務を続けた。彼は更に武装親衛隊の予備役として委任させられていたため、戦闘命令を回避するために自らの任務を継続していた。 アイヒマンはソ連軍が迫るハンガリーから脱出し知己であったカルテンブルンナーの居るオーストリアへ戻ったが、彼はアイヒマンの任務がユダヤ人の根絶であることを知っていたため、連合国軍から責任を問われることを恐れアイヒマンとの面会を拒絶した。なお、アイヒマンは自身がユダヤ人虐殺の責任者であることを充分に認識していたことから、敗戦が現実味を帯びてくるにつれて写真に写ることを極度に嫌った。ある日写真を撮られたことに激怒し、カメラを破壊したことがあった。
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