絶滅収容所への移送(1942年8月・9月)
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「レ・ミル収容所」の記事における「絶滅収容所への移送(1942年8月・9月)」の解説
レ・ミルはドイツ軍による占領地域ではなく、ヴィシー政府が統治する自由地域(フランス語版)であったが、ドイツ軍が自由地域の占領を開始する1942年11月11日より前にすでに、レ・ミル収容所から2,000人以上のユダヤ人がドランシー収容所やリヴサルト収容所(フランス語版)を経由して、ドイツ国内の絶滅収容所に送られた。ヴィシー政府は自由地域から10,000人のユダヤ人を強制収容所に移送することに同意したのである。8月3日、レ・ミル収容所は閉鎖された。この地域の女性や子どものユダヤ人がレ・ミル収容所に集められ、政治亡命者やフランス軍に従軍した外国人を含む他の抑留者とともに5つの輸送部隊(列車)でアウシュヴィッツに送られた。同年4月に首相に復帰したピエール・ラヴァルは対独協力政策を主導し、16歳未満の子どもも強制移送することを提案したが、当初はまだ、ユダヤ人の子どもたちを救助団体に引き渡すことができたため、8月10日に5歳から18歳までの70人が解放された。9月以降は通過所となり、最後に残っていた少数の抑留者が12月に移送された。ドイツの収容所のうちアウシュヴィッツ強制収容所に送られたユダヤ人は約1,500人であった。
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