絶滅収容所の建設
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「強制収容所 (ナチス)」の記事における「絶滅収容所の建設」の解説
ヒトラーは1941年には全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることを決意した。1941年7月31日にはヘルマン・ゲーリングからの文書でラインハルト・ハイドリヒが「ユダヤ人問題の最終的解決」の委任を受けている。またゲシュタポのユダヤ人課課長アドルフ・アイヒマンによると1941年夏の終わりに彼はハイドリヒに呼び出され「私は今ちょうど親衛隊全国指導者のところから戻ってきたところだ。総統はユダヤ人の肉体的抹殺を命令された」と通達されたという。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスによると1941年8月に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに呼び出され、ヒトラーがユダヤ人絶滅を決定したことを告げられたという。そして1942年1月20日にハイドリヒが主催したヴァンゼー会議において「ユダヤ人問題の最終的解決」が正式に宣言された。 ヒトラーの意思を実現するためにヒムラーは絶滅収容所(Vernichtungslager、ファアニヒトウングスラーガー)の建設を開始させた。絶滅収容所には大きく分けて二種類あった。一つは親衛隊経済管理本部の管轄下になく、強制収容所(Konzentrationslager)とは別物の収容所である。もう一つは強制収容所に絶滅収容所の役割が加えられた親衛隊経済管理本部管轄下の収容所である。前者はただひたすら殺戮のみを行う純然たる絶滅収容所であるが、後者は強制収容所と絶滅収容所の役割を併せ持っていたので、選別が行われていた。選別によって労働不可と判断された者はガス室へ送られたが、労働可能と判断された者は労働力としての価値がなくなるまでは生存を許され、収容所の中で働かされていた。この節では後者について取り扱う。前者については下の節を参照。 強制収容所と絶滅収容所の役割を兼ね備えた強制収容所は2つ存在した。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とマイダネク(ルブリン強制収容所)である。マイダネクはポーランド総督府領内のルブリン地区およびワルシャワ地区、ならびにフランスから送られてくるユダヤ人・ジプシーの殺戮を担当していた。一方アウシュヴィッツは地域が限定されず、全ヨーロッパから送られてきたユダヤ人・ジプシーを殺戮していた。 1941年8月にヒムラーは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所所長ルドルフ・ヘスをベルリンの親衛隊本部に召集し、アウシュヴィッツ強制収容所をユダヤ人殺害センター、すなわち絶滅収容所にすることを命じた。ヘスはアウシュヴィッツに戻るとただちにソ連兵捕虜を使ってチクロンBのガス実験を行った。チクロンBは一酸化炭素よりも手っ取り早く確実であると判断してこれを毒ガスに使うこととした。 1941年10月からアウシュヴィッツでユダヤ人のガス処理が開始された。1942年には双子収容所のビルケナウ強制収容所にもガス室が置かれ、こちらがアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のガス殺の中心となっていく。アウシュヴィッツの犠牲者数は今日に至るまで確定しておらず、諸説あるが、専門家の推定は多くはアウシュヴィッツでガス殺されたユダヤ人を100万人から150万人の間ぐらいであろうと見ている。ただしアウシュヴィッツは絶滅収容所であるだけでなく、強制労働収容所でもあり続け、ガス室に送られずとも「労働を介しての絶滅」させられたユダヤ人が多数いる。一方マイダネクで絶滅させられたユダヤ人の数はラウル・ヒルバーグによれば5万人であるという。また、フランクルによると、ナチスの絶滅収容所により、ヨーロッパのユダヤ人の3分の2以上が殺害されたという。
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