「アンキューラ記念碑」
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「ローマとアウグストゥス神殿」の記事における「「アンキューラ記念碑」」の解説
西暦14年のアウグストゥスの死後、『神君アウグストゥスの業績録』のコピーがラテン語でプロナオスの内側の両方の壁に刻まれ、ギリシャ語の翻訳がセラの外壁に刻まれた。ローマにあったアウグストゥス廟の入り口の青銅の柱に原文は刻まれていたがのちの時代に失われ、ピシディア地方のアポロニアやアンティオキアなどから見つかった他の2つの碑文も不完全であったため、「アンキューラ記念碑」は現存する重要な史料である。 16世紀に入って初めて、記念碑がオージェ・ギスラン・ド・ブスベックによって西洋社会で再発見された。彼はフェルディナント1世にオスマン帝国大使に任命され、スルタンであるスレイマン1世のいるアナトリアのアメイジアに向かっていた。ブスベックはまず碑文を読んで、自らが読んだ書物の記憶を辿った結果、スエトニウスの書に起源があると特定して、1555年にはその一部のコピーをトルコからの書簡で発表した。1579年には彼のテキストを元にアウグストゥスの『業績録』が初めて刊行された。 さらにそれ以降、調査の幅は広がった。1695年にはスミルナの副領事を務めたライデンの商人が遺品から『業績録』のラテン語のテキストの写しが刊行された。18世紀になると多くのフランス人や英国人がアンカラを調査に訪れ、研究に貢献した。例えば1701年秋にはフランス人植物学者のジョゼフ・ピトン・トゥルヌフォールが南東の外壁のギリシア語テキストに初めて言及した。またイギリス人旅行家のEdmund Chishull(英語版)は新たなテキストを提示した上で、総督の庁舎か都市評議会議事堂だと思われていたこの神殿が皇帝礼拝に関わるものであると初めて主張した。 19世紀になるとドイツ人も研究に加わり、さらに調査が進んだ。その中で、軽視されていたギリシア語テキストが重視されるようになった。イギリスの地質学者ウィリアム・ジョン・ハミルトンはその研究成果を1836年に公刊し、残りの研究もフランスの考古学者ジョルジュ・ペローに引き継がれた。彼もまた1862年に結果を発表した。一方テオドール・モムゼンも1865年に『神アウグストゥスの業績録』の第一版を公刊していた。しかしペルガモンでの発掘に携わっていた考古学者たちが1882年にアンカラを訪れ、ラテン語、ギリシア語両テキストの拓本をとることに成功すると、ほとんどのテキストが復元され、大概の文意が明らかになった。そこでモムゼンは1883年に『神アウグストゥスの業績録』第二版を公刊したのだった。こうして『業績録』に関する信頼できるテキストが出来上がったのである。なおモムゼンは「アンキューラ記念碑」をその重要性から「碑文の女王」と呼んだと伝わっている。 「アンキューラ記念碑」の圧搾は1907年から1908年にコーネル遠征隊によって入手され、伝記作家のマリアンナ・マッコーリーを含む書誌研究の基礎となっている。
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