「アンキューラ記念碑」とは? わかりやすく解説

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「アンキューラ記念碑」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 20:17 UTC 版)

ローマとアウグストゥス神殿」の記事における「「アンキューラ記念碑」」の解説

西暦14年アウグストゥス死後、『神君アウグストゥスの業績録』のコピーラテン語でプロナオスの内側両方の壁に刻まれギリシャ語翻訳セラ外壁刻まれた。ローマにあったアウグストゥス廟入り口青銅原文刻まれていたがのちの時代失われピシディア地方アポロニアアンティオキアなどから見つかった他の2つ碑文も不完全であったため、「アンキューラ記念碑」は現存する重要な史料である。 16世紀入って初めて、記念碑オージェ・ギスラン・ド・ブスベックによって西洋社会再発見された。彼はフェルディナント1世オスマン帝国大使任命されスルタンであるスレイマン1世のいるアナトリアアメイジア向かっていた。ブスベックはまず碑文読んで、自らが読んだ書物記憶辿った結果スエトニウスの書に起源があると特定して1555年にはその一部コピートルコからの書簡発表した1579年には彼のテキスト元にアウグストゥスの『業績録』が初め刊行された。 さらにそれ以降調査の幅は広がった1695年にはスミルナ副領事務めたライデン商人遺品から『業績録』のラテン語テキスト写し刊行された。18世紀になると多くフランス人英国人アンカラ調査訪れ研究貢献した例え1701年秋にフランス人植物学者のジョゼフ・ピトン・トゥルヌフォールが南東外壁ギリシア語テキスト初め言及した。またイギリス人旅行家のEdmund Chishull(英語版)は新たなテキスト提示した上で総督庁舎都市評議会議事堂だと思われていたこの神殿皇帝礼拝関わるのである初め主張した19世紀になるとドイツ人研究加わり、さらに調査進んだその中で軽視されていたギリシア語テキスト重視されるようになったイギリスの地質学者ウィリアム・ジョン・ハミルトンはその研究成果1836年公刊し、残り研究フランス考古学者ジョルジュ・ペローに引き継がれた。彼もまた1862年結果発表した一方テオドール・モムゼン1865年に『神アウグストゥス業績録』の第一版公刊していた。しかしペルガモンでの発掘携わっていた考古学者たちが1882年アンカラ訪れラテン語ギリシア語テキスト拓本をとることに成功すると、ほとんどのテキスト復元され大概文意明らかになった。そこでモムゼン1883年に『神アウグストゥス業績録』第二版公刊したのだった。こうして『業績録』に関する信頼できるテキスト出来上がったのである。なおモムゼンは「アンキューラ記念碑」をその重要性から「碑文女王」と呼んだ伝わっている。 「アンキューラ記念碑」の圧搾1907年から1908年コーネル遠征隊によって入手され伝記作家のマリアンナ・マッコーリーを含む書誌研究基礎となっている。

※この「「アンキューラ記念碑」」の解説は、「ローマとアウグストゥス神殿」の解説の一部です。
「「アンキューラ記念碑」」を含む「ローマとアウグストゥス神殿」の記事については、「ローマとアウグストゥス神殿」の概要を参照ください。

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