築地 概要

築地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/23 23:07 UTC 版)

概要

明治より京橋区役所や現在の中央区役所が置かれ、中央区京橋地域の行政的中枢を担ってきた。そのため警察署郵便局(旧集配局)など行政機関が集中している。東京湾河口部に面している土地柄、日本海軍中央卸売市場築地市場)など、海に関連する施設が存在した。1869年には築地鉄砲洲(現在のから明石町)に外国人居留地も設けられた。地域名の京橋を冠して京橋築地とも呼ばれている。

北に新富および入船、東に明石町および隅田川対岸の勝どき、南に浜離宮庭園および港区東新橋、西に銀座が位置する。明石町・入船・新富同様、域内に「銀座」「東銀座」を名乗るマンションやビルが少なくない。

地理

京橋地域の南部に位置する。

河川

歴史

埋立地

「築地」は元来埋立地の意味で、東京築地も埋立地である。江戸時代1657年明暦3年)の明暦の大火の際に焼失した浅草御門南の西本願寺(現在の築地本願寺)の代替地として佃島の住人によってこの土地が造成された。その後、浄土真宗寺院墓地が次々と建立され、周辺は寺町のようになった。ほかの地域は武家屋敷が数多く立ち並んでいた。

外国人居留区

1869年には築地鉄砲洲(現在のから明石町)に外国人居留地も設けられた。このことから在日アメリカ人子弟向けの学校であるアメリカンスクール・イン・ジャパンの校舎が1902年の開校時に設けられていた。また、中津藩藩士福澤諭吉蘭学塾慶應義塾)を開いた場所でもある。

海軍関係施設

江戸時代末期、江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設け、後に海軍部門の軍艦操練所を設置、勝海舟らが教授として赴任した。明治維新の後、大名屋敷や講武所跡は明治政府に接収され、太平洋戦争後に日本海軍が解散されるまで、主に海軍用地として使用された。過去に築地にあった日本海軍関係施設は以下の通り。

「旗山」の石碑(魚河岸水神社遥拝所境内にて2011年撮影)
1872年明治5年)、元松平定信別邸のあった場所に創立。海軍卿旗を掲揚した浴恩園内の築山は「旗山」と呼ばれた。この地は後に築地市場となり、水神社遥拝所境内に海軍発祥の石碑として「旗山」の碑が設置された[4][5]
1869年(明治2年)、海軍操練所として元芸州蔵屋敷内に創立[6]、翌年に海軍兵学寮に、さらに1876年(明治9年)に海軍兵学校と改称された。1887年(明治20年)に広島江田島に移転された。
1873年(明治6年)、海軍病院付属学舎として創立。1880年(明治13年)に廃校となるが、1882年(明治15年)に海軍医務局学舎としてに再興され、1889年(明治22年)に海軍軍医学校と改称された。さらに1908年(明治41年)に築地に移転され、1929年昭和4年)に築地五丁目に新築移転され、現在敷地は国立がん研究センター中央病院となっている。
1857年安政4年)、江戸幕府が講武所内に軍艦教授所として開設。1859年、勝海舟が砲術教授となり改名。オランダから寄贈された「観光丸」(旧名「スンビン号」)で乗員訓練が行われた。
1888年(明治21年)、それまで芝山内天神谷にあった海軍会計舎を移転、1907年(明治40年)に改名。1932年(昭和7年)に勝鬨橋西詰に新築移転され、太平洋戦争終結後の1945年(昭和20年)に廃校となった。

区画整理

1923年関東大震災が発生し、築地一帯は焼け野原となった。帝都復興計画に基づいて晴海通り新大橋通りなどの大規模な道路の建設と区画整理が行われ、それに伴い多くの寺院が移転していった。復興が一段落した1935年には日本橋の魚河岸が築地の海軍用地に移転され、場外にも市場が形成された(築地場外市場)。

現在

第二次世界大戦中は築地市場の出荷が停止して閑散としていたが、1950年に出荷が再開されると築地はたちまち息を吹き返した。1966年7月1日住居表示が実施された[7]

築地市場は敷地が手狭でトラックの駐車スペースなどが少なく、深夜早朝時には周辺道路にトラックの違法駐車が列をなして危険であった。施設の老朽化が進んでいたことから、卸売市場は2018年10月に豊洲市場(東京都江東区)へ移転。2020年以降跡地の再開発が計画されている。

卸売市場の豊洲移転後も、一般消費者も利用できる商店街である築地場外市場はそのまま残った。築地場外市場には中央区により生鮮食品の小売市場である築地魚河岸が設置され、食の街としての機能が維持されている。中央区は東京都心の一角であり、築地とその周辺には企業のオフィスやマンション、店舗が多い。ホテルも増えており、住民や来街者に加えて外国人を含む観光客も多く訪れおり、卸売市場の移転後も飲食店はにぎわっている[8]

町名の変遷

実施後 実施年月日 実施前(特記なければ各町名ともその一部)
築地一丁目 1966年7月1日 築地一丁目、築地二丁目、築地三丁目
築地二丁目
築地三丁目
築地四丁目 築地四丁目(全域)
築地五丁目 築地五丁目(全域)
築地六丁目 小田原町二丁目(全域)、小田原町三丁目(全域)
築地七丁目 小田原町一丁目(全域)
浜離宮庭園 築地六丁目(全域)

世帯数と人口

2019年令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
築地一丁目 615世帯 892人
築地二丁目 781世帯 1,141人
築地三丁目 611世帯 936人
築地四丁目 502世帯 688人
築地五丁目 314世帯 378人
築地六丁目 878世帯 1,476人
築地七丁目 1,565世帯 2,757人
5,266世帯 8,268人



  1. ^ a b 町丁目別世帯数男女別人口”. 中央区 (2019年9月3日). 2019年9月23日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月31日閲覧。
  4. ^ 海洋情報部ゆかりの記念碑リーフレット海上保安庁)2020年11月16日閲覧
  5. ^ 浴恩園跡(東京都文化財情報データベース) 2020-11-16閲覧
  6. ^ 安藤菊二 (1975-03-15), “築地地区の蔵屋敷”, 郷土室だより (東京都中央区京橋図書館) (第8号), https://www.library.city.chuo.tokyo.jp/images/upload/kyodo_008.pdf 2022年7月4日閲覧。 
  7. ^ 同年11月30日、自治省告示第176号「住居表示が実施された件」
  8. ^ 「つきじ 築地再発見」『日本経済新聞』朝刊2019年12月15日(NIKKEI The STYLE)9-11面
  9. ^ 区立学校一覧”. 中央区 (2019年8月19日). 2019年9月9日閲覧。
  10. ^ 東京の子。オードリー若林さんからみた「東京」 - ほぼ日刊イトイ新聞






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