札幌農学校 概要

札幌農学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 04:21 UTC 版)

概要

札幌農学校の開校は旧東京大学より1年早い1876年であり、日本で最初期の学位授与機関(事実上の大学)として設立された[2]

札幌農学校は札幌、ひいては北海道の開拓の歴史と密接に繋がっており札幌の発展に伴って規模も拡大し、東北帝国大学農科大学、北海道帝国大学、そして現在の北海道大学へと発展した。

札幌農学校時代の建造物は、現在でも北海道大学構内及び同大学植物園に数多く残されている(後述)。旧演武場と旧寄宿舎は札幌市北海道にそれぞれ移管され、前者は札幌市時計台として、後者は北海道開拓の村の展示施設としてそれぞれ保存・展示されている。

本項目では、札幌農学校の設立から北海道帝国大学に昇格するまでの歴史をまとめて記述する。

開拓使仮学校

1869年明治2年)、札幌本府の建設が始まった。建設開始以前に札幌に住んでいた和人は2家族。

1872年5月21日(明治5年4月15日)、東京増上寺の方丈25棟を購入して開拓使仮学校(初代校長は荒井郁之助[3])が設置された。北海道開拓に当たる人材の育成を目指し、後に札幌に移して規模も大きくする計画であったから、仮学校とよばれた。

初年度全生徒数は120名(官費生60、私費生60)で、年齢により普通学初級(14歳以上20歳未満)と普通学2級(20歳以上25歳未満)に割り振り、後に専門の科に進ませた。

開拓使女学校→札幌女学校

明治5年9月19日(1872年10月21日)、開拓使仮学校内に女学校を開設した[4]。学生は官費生50名(うち札幌本庁管内から9人、函館支庁管内から6人)であった[4]。教師としてオランダ人女性教師2名が雇われ、「語学筆算地理学史学婦人ノ手業」などヨーロッパの小学生一般の学科が教えることとなった[4]

1873年(明治6年)4月に「入校証書」が示されると、卒業後5年間開拓使に勤務することや、北海道在籍者と結婚することを義務付ける文面であったために、生徒の動揺が激しく転学者が相次いだ[注 1][4]。さらに1874年(明治7年)に札幌へ移転することが決定されたが、おりしも腸チフスの発生による学校閉鎖中であったこともあり、生徒・教員の間に混乱が発生し、退学者・退職者が続出した[4]

1875年(明治8年)8月24日[5]、札幌の脇本陣(現在の札幌市中央区南1条西3丁目)に移転し「札幌女学校」と改称した(生徒35人)[4]。しかし、女子生徒と官員とのスキャンダルなどが発生したことから、開拓大判官松本十郎は「卒業生を出しても用いるところがなく、万事整っていない北海道に女学校は時期尚早である」(大意)と建言した[4]。これを受け、1876年(明治9年)5月2日に札幌女学校は廃校となった[5]

卒業生に広瀬常(のち森有礼の妻)らがいる。一時在籍者としては堀川トネ(函館出身、のちにジョン・ミルンの妻)、廃校により他校に移った者に平岡龍子(のちに銀座教会伝道師)がいる。教師には篠田雲鳳(女性漢詩人)がいた。

札幌農学校

札幌農学校第2農場
(国の重要文化財

1875年(明治8年)5月、最初の屯田兵が札幌郊外の琴似兵村に入地した。また、札幌本府建設から5年が経過して町の形成が取れ始めた北海道石狩国札幌郡札幌(現在の札幌市中央区北2条西2丁目)付近に仮学校が東京から移転し、同年7月29日札幌学校と改称した[6]。この期に開拓使札幌本庁学務局所管となり、続いて9月7日に開校式を行った[6]

1876年(明治9年)8月14日、札幌学校は札幌農学校と改称して開校式を挙行し(正式改称は同年9月)、学制(明治5年太政官布告第214号)の規定に基づく学士の称号の授与権限が付与された[6]。なお、8月24日には女学校も札幌に移転し開校したが、翌1877年(明治10年)には廃校になった。この女学校校舎は元の脇本陣を利用したもので、1879年(明治12年)1月17日開拓使札幌本庁舎が全焼したあと、1888年(明治21年)12月14日北海道庁赤レンガ庁舎ができるまでの間、開拓使、札幌県及び北海道庁の庁舎として使用された。現在の札幌市中央区南1条西4丁目(三越札幌店付近)にあった。

ウィリアム・スミス・クラーク

札幌農学校の初代教頭(事実上の校長[7])にはマサチューセッツ農科大学学長のウィリアム・スミス・クラークが招かれた。クラークはわずか8ヶ月の滞在ではあったが、彼に直接科学とキリスト教道徳教育の薫陶を受けた1期生からは、佐藤昌介(北海道帝国大学初代総長)や渡瀬寅次郎東京農学校講師、実業家)らを輩出した。

2代目のウィリアム・ホイーラー教頭もクラークの精神を引き継ぎ、2期生からは新渡戸稲造(教育者)、内村鑑三(思想家)、広井勇土木工学)、宮部金吾植物学)、伊藤一隆官吏)らを出した。彼らは「札幌バンド」と呼ばれ、北海道開拓のみならず、その後の日本の発展に大きな影響を与えた。

3期生の斎藤祥三郎外務省翻訳官となり、その子斎藤博駐米大使在任のままアメリカ合衆国で客死した。他に、各市県の知事・市長を歴任した高岡直吉、英語教育者佐久間信恭第五高等学校高等師範学校大阪外国語学校等教師)、北海英語学校(現北海高等学校)設立者大津和多理、4期生には、国粋主義志賀重昂(しげたか)、ジャパンタイムズ主筆頭本元貞英語青年を創刊した武信由太郎農商務大臣秘書官等から実業を経て衆議院議員となった早川鉄冶等が出た。

1~5期生の多くが官立英語学校(元外国語学校 (明治初期))で学んでおり,いわば継続的イマージョン・プログラムで培った英語力で後に各界に飛躍した。

クラークやホイーラーが教頭として赴任していた頃においても名目的な校長職は存在しており、調所広丈(初代)は開拓使関連の多くの要職のうちの一つとして兼務していた。

1879年(明治12年)に幌内炭鉱(幌内村。現・三笠市)が開山し、石炭積出港となる小樽港までの区間に官営幌内鉄道の建設が始まる。1880年(明治13年)11月28日札幌札幌駅 - 小樽手宮駅間が新橋駅 - 横浜駅間、大阪駅 - 神戸駅間に続く鉄道として開通した(同年札幌区設置)。1882年(明治15年)11月13日には手宮駅 - 幌内駅間が全通(→幌内線函館本線日本の鉄道史)。この年、北海道の人口は20万人を越え、開拓使が廃止されて函館県札幌県根室県の3県が設置された。

また、札幌農学校は農商務省の管轄になった。鉄道開通により、札幌は小樽港という外港を得て、政治面のみならず流通・経済でも中心地となっていき、以後函館に代わって札幌と小樽が道内の中心都市としての地位を築き上げていくことになる。

1884年(明治17年)、伊藤博文の命で北海道視察に訪れた内閣府書記官・金子堅太郎に「実業に暗く役に立たない」と酷評される事件があった。

1886年(明治19年)、3県は廃止されて北海道庁が設置された。北海道庁官制によって北海道庁長官を他府県の知事に当たる役職とした。同年、博士号を取得して留学から帰国した佐藤昌介が札幌農学校教授に就くと、「米国農学校の景況及び札幌農学校の組織改正の意見」を北海道庁長官岩村通俊に提出し、工学科の新設や実学重視のカリキュラム改訂を主張した。翌年、札幌農学校に工学科が設置された[8]。2期生の広井勇は1889年にドイツ留学から帰国し工学科で教えた[9]

1890年(明治23年)、北海道庁は総理大臣直下から内務省管轄となり、国家予算の制約を受けるようになる。札幌農学校の予算は削減され、1893年(明治26年)、札幌農学校は文部省直轄へ移行することが決まり、工学科の廃止も決定される[9]

北海道では農業・開拓や国防を担う屯田兵制度が1875年(明治8年)5月から開始されたが、1880年代末には人口が30万人(→都道府県の人口一覧)を越えて開拓に適した土地が少なくなり、かつ炭鉱などの鉱業や流通業が主力産業となって人口が急増し始めた。すると新産業に対応出来ない札幌農学校の卒業生の北海道流出が増え、また志願者も減少する傾向が見られた。そのため、農業以外の高等教育の必要性が高まった。日清戦争賠償金を元に1897年(明治30年)、京都帝国大学が設置されると、総合大学である帝国大学を北海道にも設置しようとの運動が盛んになった。

札幌農学校では開校初期にはアメリカ出身の教師が多かったこともあり、イギリス・アメリカ風の大農経営・畑作に重点をおく農学が講義されていた。しかし、第1期生の佐藤昌介が米留学中にジョンズ・ホプキンス大学リチャード・T・イリー英語版のもとで学んだことにより、保護貿易論者のイリーが影響を受けていたドイツ農学や歴史学派経済学の影響が1890年代半ばの農学校で強くなり、次第に中小農経営と米作に重点をおく農学へと学風が転換していった。

歴代校長

  • 調所広丈:1876年9月8日 - 1881年2月
  • 森源三:1881年2月 - 1886年12月28日
  • (事務取扱)佐藤秀顕:1886年12月28日 - 1887年3月10日
  • (代理)佐藤昌介:1887年3月22日 - 1888年12月
  • 橋口文蔵:1888年12月 - 1891年8月14日
  • (心得)佐藤昌介:1891年8月16日 - 1894年4月11日
  • 佐藤昌介:1894年4月12日 - 1907年8月31日

注釈

  1. ^ 結婚条項については半年後に削除された。
  2. ^ 原文の漢字を常用漢字体に、片仮名を平仮名に改めた。

出典

  1. ^ a b 山本悠三『札幌農学校の理念と人脈』芙蓉書房出版、2020年。 
  2. ^ 創基150周年について”. 北海道大学創基150周年記念ウェブサイト. 2024年3月10日閲覧。
  3. ^ 資料でたどる北海道大学の歴史”. 北海道大学150年史 編集準備室. 2020年12月4日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 開拓使女学校から札幌女学校へ”. 新札幌市史デジタルアーカイブ(ADEAC所収). 札幌市中央図書館. 2021年4月12日閲覧。
  5. ^ a b 開拓使仮学校・札幌学校(1872~)”. 資料でたどる北海道大学の歴史. 北海道大学150年史編集室. 2022年10月25日閲覧。
  6. ^ a b c 釧路市地域史研究会 『釧路市統合年表:釧路市・阿寒町音別町合併1周年記念』 釧路市、2006年10月。
  7. ^ 半藤一利、小島直記 :気概の人石橋湛山 (2004)
  8. ^ 逸見 勝亮 (2007). “札幌農学校の再編・昇格と佐藤昌介”. 北海道大学大学文書館年報 2: 29. http://hdl.handle.net/2115/20441. 
  9. ^ a b 原口征人,今尚之,佐藤馨一 (1999). “札幌農学校における土木教育”. 高等教育ジャーナル─高等教育と生涯学習 5: 111. https://high.high.hokudai.ac.jp/wp-content/uploads/2016/02/No0510.pdf. 
  10. ^ 東北大学金属材料研究所(編)(2016)「片平の散歩道 金研百年の歩みとともに」河北新報出版センター
  11. ^ 『官報』第7269号、明治40年9月19日。
  12. ^ a b 農学校のカリキュラム”. 北海道大学附属図書館. 2023年9月27日閲覧。
  13. ^ 札幌農学校官制・御署名原本・明治十九年・勅令第八十四号”. 国立公文書館. 2023年9月27日閲覧。
  14. ^ 札幌農学校|日本歴史地名大系・日本大百科全書|ジャパンナレッジ”. NetAdvance Inc.. 2023年10月28日閲覧。
  15. ^ 札幌市時計台:時計台のあゆみ”. 2023年10月23日閲覧。
  16. ^ a b 歴史的遺産ガイドマップ”. 北海道大学. 2023年10月22日閲覧。






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