解釈をめぐる論争
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「全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言」の記事における「解釈をめぐる論争」の解説
この予言に関しては、初出から100年近く後になって、イエズス会士のクロード=フランソワ・メネストリエ(フランス語版)が初めて本格的な偽作説を提示した。『誤って聖マラキに帰せられている教皇選挙に関する予言への反駁』(1689年)などのパンフレットで示された彼の指摘はその後の偽作説の基盤となり、それをさらに敷衍したのが神学博士のルイ・モレリ(フランス語版)(1643年 - 1680年)であった。モレリはその大著『歴史大事典』(初版1674年、死後も増補された)の聖マラキの項において、信奉者側の解釈も含めたマラキ予言の紹介と包括的な批判を行なった。彼らの批判の要点は、前述したシモンチェッリ関連を除くと、おおよそ以下のようにまとめることができる。 1595年以前の伝聞が存在しない。マラキの予言は1595年に公刊されるまで、誰一人として言及していなかった。マラキと交流があった同時代人クレルヴォーのベルナルドゥスはマラキの伝記をまとめ、彼に予言の才能があったと紹介しているが、そのベルナルドゥスですら教皇に関する予言について何も語っていない。また、ローマの動向を聞き及ぶことができたはずの同時代の各地の著名な聖職者たちの証言もいっさい見当たらない。 教皇についての歴史や年代記を執筆した人々はマラキの死後何人も出ているが、彼らの著書でもいっさい触れられていない。特にヴィオンが解説者として言及しているチャコンは、歴代教皇の生涯について書いているにもかかわらず、そこでも一切の言及が見られない。 アイルランドの著述家たちには、母国の聖人伝のようなものをまとめた人々がいるが、彼らも誰ひとり言及していなかった。 1595年以前の教皇の配列がおかしい。対立教皇が10人含まれているが、その標語の中で「スキスマ」(分裂)やその類語を用いて対立教皇であることを明示しているのは2人だけで、あとは正式な教皇と入り混じっている。 さらに、対立教皇の配列順が年代的に誤っている。マラキの予言では、一般的なローマ教皇の一覧に比べて、順序の異なっている箇所が2箇所ある。まず、標語6番から8番は3人の対立教皇にあてられているが、彼らは9番に当てはめられているアレクサンデル3世の選出に反対した3人の枢機卿が順に立ったものなので、アレクサンデル3世を先に置くのが一般的である。また、アレクサンデル3世に反対した4人目の対立教皇であるインノケンティウス3世が抜けている。こうした不適切な配列は、16世紀の年代記の誤りを引き写した可能性が指摘されている。 42番から51番はいわゆる教会大分裂期の教皇であるが、アヴィニョン選出の対立教皇(42-44番)を最優先するという明確な意図が読み取れる。ついでローマ選出の教皇(45-48番)、ピサ選出の対立教皇(49-50番)の順になっているが、この結果、対立教皇クレメンス8世(44番)よりもマルティヌス5世(51番)の方が7つも後という、変則的な配列になっている(マルティヌス5世が選出されたコンスタンツ公会議で、当時のアヴィニョン教皇であったベネディクトゥス13世は強制的に廃位とされた。その没後アヴィニョンで立った対立教皇がクレメンス8世である)。 1595年以前の予言については、事実関係に誤りが含まれている。以下のリストで見るように、16世紀当時には正しいとされていた情報に基づいて予言が書かれているが、のちに誤りであると判明したり、事実か疑わしくなっている事柄が含まれている。 標語があまりにも漠然としすぎている。現代でも1595年以降の曖昧さはしばしば批判されるが(後述)、メネストリエは1595年以前についても、短い標語にすぎないのだから、こじつければほかの教皇にも十分に適合することを実際に示した。たとえば、『追い払われた敵』(2番)は、標語の対象時期直前の対立教皇アナクレトゥス2世(在位1130年 - 1139年)によく当てはまる。彼はローマ市民らの支持は取り付けていたが、有力者らからは徹底的に批判され、その死後、クレルヴォーのベルナルドゥスは別の聖職者に「敵が追い払われた」という趣旨の言葉を書き送ったからである。また、現在の予言書で『追い払われた敵』に対応しているルキウス2世は、『山の大きさ(偉大さ)によって』(3番)に当てはめてもおかしくない。彼はエルサレムの聖十字架修道参事会員などだったことがあり、エルサレムのゴルゴタの丘はイエス・キリストの磔刑が執行された大いなる丘(小山)だからである。メネストリエはこんな調子で序盤の予言の対応関係を次々に入れ替えてみせた。 こうした偽書説に対し、19世紀後半になるとパレ=ル=モニアル(フランス語版)の病院附司祭でオータンの名誉参事会員だったフランソワ・キュシュラ (François Cucherat) が、マラキの予言は真作であるという立場から擁護論を展開し、マラキは苦境にあったインノケンティウス2世を励ますために予言を献上したが、それ以降バチカンで秘匿され続けたために、同時代やそれ以降の証言が一切ないのだとした。この擁護論は後にカトリック百科事典の「予言」の項でも引き合いに出されることになるが、それに対しては、アルスターのカトリック司祭であったM. J. オブライエンが『いわゆる聖マラキの予言に関する歴史的・批判的報告』(1880年)の中で反論し、キュシュラが主張した話の信憑性に疑問を呈するとともに、ひとつひとつの標語について信奉者側の解釈を紹介しつつ、懐疑的な検証も行なった。 その後も神学博士・哲学博士のカトリック神父ジョゼフ・メートルが、1901年から1902年にかけて2冊の大著をものして擁護論を展開するなどしたが、少なくとも従来の百科事典や人名事典、キリスト教やカトリックに関する専門事典などでは、16世紀に捏造された偽書として扱われるのが普通である。フランシスコ会聖アントニオ神学院教授、同校長などを歴任したカトリック神父のセラフィノ・フィナテリも、19世紀ドイツの神学者アドルフ・フォン・ハルナックの見解を引き合いに出しつつ、偽書と断じた。また、オックスフォード大学のセント・アンズ・カレッジ副学寮長だった宗教史家のマージョリ・リーヴスや、予言テクストの史的分析によってパリ第10大学で博士号を取得したジャック・アルブロン(フランス語版)といった歴史学者たちも、その偽作された背景に関する分析などを展開した。アルブロンはフランス国立図書館が1994年1月から2月に開催した展示会「占星術と予言」にも関わっており、同展示会のカタログでは、聖マラキの予言関連の文書は中世の『全ての教皇に関する預言』の流れを汲む偽書およびその解釈書と位置づけられていた。フランスの超領域学術研究国際センター研究員で宗教心性史などが専攻のジョルジュ・ミノワ(フランス語版)も、やはり偽作という立場で言及している。ほかにサクラメント・シティ・カレッジ(英語版)名誉教授の哲学者ロバート・キャロルは、疑似科学方面への懐疑的項目を多く収録した著書『懐疑論者の事典』の「マラキ・ウア・モルガイル大司教」の項目において、偽書かどうかは断じていないが、信奉者的な立場から解釈する行為を「靴べら的行為」のひとつと位置づけている。 偽作説が有力視されるようになってからも、通俗的な信奉者たちは予言解釈を積み重ね、それぞれの標語が教皇自身や歴史的事件を的中させていると主張してきた。そして、ヨハネ・パウロ2世(就任順から110番目の標語に対応する)が在位している頃までは、在位年数の平均などを元に、マラキの最後の予言(ローマ教会または世界の破滅)が1999年頃に実現すると考える者たちもいた。その結果、ノストラダムス予言にある1999年の恐怖の大王による破局と重ねて解釈されることもしばしばであった。ヨハネ・パウロ2世の在位期間は長期にわたったが、112番目を1999年と重ねて解釈する論者にとっては、彼が早く退位しないと都合が悪い。そこで、1990年代の予言信奉者たちには、ノストラダムス予言などの解釈結果として、ヨハネ・パウロ2世が1999年以前に暗殺されて、次の教皇が即位するなどと主張する者も少なからず見られた。1999年が何事もなく過ぎると、今度は2012年人類滅亡説が広まるに従い、その種の予言解釈本やオカルト雑誌『ムー』の増刊などでは、マラキの予言が示す最後の時期も近く訪れるという形で紹介されることもしばしばであった。 なお、信奉者のダニエル・レジュは、ローマのサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(19世紀に焼失したのち再建)の歴代教皇の肖像画を掲げるスペースが、ヨハネ・パウロ2世の時点で、彼のほかにあと1人分しか空いていないとして、大聖堂を再建した時点での教皇庁が聖マラキの予言を信じていた証拠だと主張していた。日本の関連文献にはこれをそのまま紹介しているものもあったが、懐疑主義者団体ASIOSの原田実は逆に、ベネディクト16世の時点でさえもまだ何代分もの空白があり、聖マラキの予言が教皇庁では気にかけられていない証拠ではないかと主張している。 現在の偽作説では、どのような方法で偽作されたのかについても仮説が提示されている。まず、予言の標語(最後の散文を除く)が111あるのは、1590年の段階で過去に当たっていた74人分に、その半分(37人分)を付け加えただけに過ぎない。単純に計算した場合、(1143年から1590年向けの半分であるので)19世紀初め頃までの予言しか想定していなかったことになるが、これは終末がそう遠くないと考えられていた16世紀当時の予言的言説と整合的である。 さらに、そうして作成された1590年の段階で未来に当たっていた予言句は、16世紀当時に知られていた聖書外典や予言書のテクストから安直に単語を拾い集めて捏造されている可能性がある。一例を挙げるなら、『天使的牧者』(106番)は、ヨハン・リヒテンベルガー(英語版)の占筮第36章に出てくる天使教皇たち(終末に天から遣わされると考えられた中世の伝説的教皇で、「天使的牧者」とも呼ばれた)についての記述から借用されている可能性がある。また、同章で言及されている、後を継ぐ3人の聖者のうち、「船乗りと呼ばれることになる」1人目は『牧者にして船乗り』(107番)の、「太陽が高揚の位置にある時に現れる」3人目は『太陽の労働によって』(110番)の、それぞれ基になった可能性があると指摘されている。
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