聖人伝
聖人伝
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メロヴィング期の象徴的な、そしてもっとも発展した文学ジャンルはキリスト教の聖人伝である。聖人伝はメロヴィング朝時代の文学活動において量的に最大の部分を占めている。こうした聖人伝を多数残す原動力となったのが文学活動における教会・修道院の重要性の増大であった。7世紀半ばまでには古代以来の都市の公的な学校が順次消滅する一方、6世紀ごろからキリスト教の司祭を育成するための司教区学校が、古代の学校の伝統とは独立的にガリア全域に広がっていった。これは古代の学校で十分に施すことができない宗教的、聖職者的教育を施すために教会が独自に用意した教育機構であった。 また、修道院においても文筆活動が活発化した。修道院にはもともと書写室が備わり、古典やキリスト教の教父たちの著作、そして聖書や典礼文書の筆写が行われていたが、聖コルンバヌスの影響下で創設された、ガリア北部やブルグンディアの修道院には特に整備された書写室が常に設けられ、筆写作業は修道院の手労働の重要な要素になっていった。聖人伝の多くはこうした修道院で作成された。この時代には「著者」という概念は成立しておらず、文書を書写する人が「こうした方がいい」と考えればその都度変更が加えられながら書写された。 当時の重要な作品としてあげられるのが669年以降にニヴェル(英語版)で書かれた『聖女ゲルトルーディス(フランス語版)伝』、ルペーで書かれた『聖アイユル伝』、688年以前にフォントネルで書かれた『聖ヴァンドリル(英語版、フランス語版)伝』、670年頃にルミルモン(英語版)で書かれた『聖アメ(英語版)伝』、707年以前にランで書かれた『聖女サラベルジュ伝』などである。
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「聖マルガリタ (修道士処女伝説)」の記事における「聖人伝」の解説
マルガリタは裕福で高貴な美しい乙女であった。マルガリタは貴族の青年と結婚することになったが、結婚式の夜に純潔の栄光を願って髪を切り男装して出奔した。マルガリタは遠く離れた修道院にたどり着くと修道士ペラギウスと名乗り、修道院で勉強することとなった。ペラギウスはその敬虔さと清らかさのために、女子修道院の修道院長に推薦されて務めることとなった。 悪魔はペラギウスを貶めるために、ある修道女を誘惑し妊娠させた。その立場上、いつでも修道女との密会の機会があったペラギウスは、修道士からも修道女からも疑われることとなり、裁判なしに有罪とされた。ペラギウスは修道院を追放され、洞窟に幽閉された。ペラギウスには毎日ひとつの小さなパンと少しの水が与えられるだけだったが、洞窟の中で変わらず神に感謝を捧げ続けた。 そのうちに自分の命が尽きることを悟ったペラギウスは、修道院長と修道士たちに充てて手紙を残した。手紙には俗世ではマルガリタと呼ばれていたこと、修道女たちの手で埋葬をしてほしいこと、修道女によってマルガリタの純潔が証明されるであろうことが書かれていた。手紙を読んだ修道士たちは修道女たちとともに洞窟に向かった。修道女たちはペラギウスを名乗るマルガリタが生娘であったことを知った。修道士と修道女たちは贖罪しマルガリタは女子修道院に埋葬されたここまで。
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「エルサレムのペラギア」の記事における「聖人伝」の解説
『黄金伝説』では次のように伝えられている。 アンティオキアのペラギアは裕福で美しい貴婦人だったが、淫蕩で高慢であった。ペラギアが取り巻きを引き連れて歩いている姿を見かけたヘリオポリスの司教ノンヌスはひどく心を痛め、自らの至らなさを主に謝罪した。ある日、ノンヌスが教会で説教をしていると、群衆の中にペラギアの姿があった。ペラギアはノンヌスの言葉に心を打たれ、回心し洗礼を受けた。ペラギアは洗礼を受けたのち、自らの財産をすべて貧しい人たちに分け与えて町を出た。ペラギアはオリーブ山で修道士として暮らし、禁欲と贖罪の日々を過ごした。ペラギアの評判は広まり、ペラギウスという修道士として知られることとなった。その後、ノンヌスの助祭が巡拝に出かける際、ペラギウスの噂を聞いていたノンヌスは助祭に巡拝の後にペラギウスを訪ねるよう言った。訪ねた助祭は痩せこけたペラギウスがペラギアだとは気が付かなかったが、ペラギアは助祭を覚えていたので、司教にペラギウスのために主に祈ってもらうよう願った。3日後に助祭がペラギウスの元に再び訪れるとペラギアは死んでいた。助祭がノンヌスに知らせると、ノンヌスは葬儀のために聖職者たちをすべて連れてペラギウスの元に向かった。彼らがペラギウスの遺体を運びだすとペラギウスが女だったと気づき、驚くとともに神に感謝をささげ、ペラギアの遺骸を葬ったここまで。
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ディンプナは7世紀、アイルランドの王女として生を受けた。父親は異教徒だったものの、母親の影響でディンプナはキリスト教の洗礼を受けていた。ある時、ディンプナの母親が急死すると、父王はたいへん嘆き悲しみ、西洋の国々を巡って妻の面影を宿す美しい女を探し求めた。しかしそれは叶わなかった。ところが帰国した王は、娘のディンプナが妻に似て美しく成長したことに気づき、すぐさまディンプナに近親婚を迫った。キリストに純潔を捧げることを望んでいたディンプナは、父を拒み、自分の聴罪司祭聖ゲルベルネスを頼って共にベルギーのヘールに逃れた。しかし王に見つかり、それでも拒んだディンプナは父親の手によって斬首され、殉教を遂げた。このときディンプナは15歳であった。
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「ビテュニアのマリーナ」の記事における「聖人伝」の解説
マリーナの父親が修道院に入ることになった為、父親はマリーナを男装させ一人息子として一緒に修道院に入った。以降、マリーナはマリノスとして修道生活を送るようになった。マリノスが17歳の時、父親は死期を悟り、誰にも女であることを明かさないように命じた。 マリノスは修道院での仕事の為に、ある人物の家に泊まることが多かった。ある日、その家の娘がとある騎士の子供を宿したが、困った娘はマリノスに犯されたからだと嘘を言った。しかし問い詰められたマリノスは罪を認め、慈悲を願った。このために修道院の外に追放されることになった。マリノスは修道院の門の近くに住み、パン屑を拾って暮らすようになった。娘の子が生まれるとその子を引き取り、さらに2年ほど暮らしたのちに修道院に戻され、下働きをして暮らした。 マリノスの死後、修道士たちが遺体を洗おうとしたときに、マリノスが女性であったことが判明した。修道士たちは許しを請い、マリーナの遺体は礼拝堂内に葬られた。嘘をついた娘は悪霊に取りつかれ、罪を白状することとなったが、娘がマリーナの墓前に近づくと悪霊は去った。
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「カエサリアのドロテア」の記事における「聖人伝」の解説
311年2月6日、童貞殉教者ドロテアはカッパドキアのカエサレアにおいて、ディオクレティアヌスによる迫害のため殉教した。ドロテアは県知事の前に連れだされ、信仰を試され拷問を受けたのちに死刑を宣告された。刑場に向かう途中、非キリスト教の法律家テオフィロスはドロテアに「キリストの花嫁よ、花婿の庭からいくつか果物を私に持ってきてみるがいい」と嘲笑しながら言った。ドロテアが処刑される前、6歳の男の子が現れ、彼女のヘッドドレスは果物と天上のバラの香りで満たされた。彼女はテオフィロスにそれを送った。テオフィロスはその一度でキリストへの信仰を告白し、拷問台にかかり殉教することとなった。 これがもっとも古い形の聖人伝であり、これを元に様々な形に伝播したとされる。 最初期の聖人伝ではアルドヘルムがエセックスにあるバーキング修道院(Barking Abbey)のヒルデリス(Hildelith)女子修道院長に宛てて書いたとされる『De laudibus virginitatis』(処女賛美)が知られる。
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「アンティオキアのペラギア」の記事における「聖人伝」の解説
311年、最後の大迫害の頃、ペラギアはアンティオキアに住む15歳の若い乙女であった。ペラギアが一人で家にいたとき、彼女を逮捕するために兵士たちが押しかけた。ペラギアは兵士たちが自分を裁判官の元へ連れ出すその前に、貞操の危機があることを理解していた。ペラギアは着替えの許可を兵士たちに願い、階段を上ると、屋根から川へ身を投げて死んだ。ペラギアは自らの純潔が他者の罪を引き起こすきっかけになることからも、不名誉からも逃れることとなった。 彼女の真正さは、アンブロジウスとクリュソストモスにより承認された。
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ヤコボスはペルシアの首都であるベート・ラパト(Beth-Lapeta)においてキリスト教徒の貴族の家に生まれ、ペルシア王に重用されていた。ヤコボスは王に対する忠誠心により非キリスト教の神を崇めたために母と妻から絶縁された。ヤコボスは、家族は他人となり、神から遠ざかってしまったことを後悔した。 ある日のことヤコボスは、ペルシア王にキリスト教徒かと問いただされ脅されたが、キリスト教徒だと答え信仰を捨てなかった。ペルシア王はキリスト教徒たちへの見せしめのために、ヤコボスを拷問にかけて処刑することにした。刑吏の手により体をこま切れにされることとなったが、ヤコボスは体が一か所切り落とされるたびに神を称えた。ヤコボスは両手足の指、両足、両手、両腕、両腿の28箇所を切断され、最後に斬首されて死んだ。ヤコボスの遺体はキリスト教徒たちの手により盗み出され埋葬されたここまで。
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エウフェミアはカルケドンで、元老院議員であったフィロフロノスとその妻であるテオドージアの間に生まれたとされる。伝承によると、カルケドンの知事であったプリスコスは市民全員に非キリスト教の祭りに参加しアレースに供物を捧げるよう命令を出した。エウフェミアは知事の命令を無視し、隠れてキリスト教の神に祈りを捧げているところを、49人のキリスト教徒と共に発見されて捕まった。彼らは19日間に渡り拷問されたが、誰も信仰を捨てなかった。プリスコスは彼らの中で一番若かったエウフェミアを仲間から引き離し、拷問により信仰を放棄させようとした。エウフェミアは鋭いナイフと共に車輪に縛り付けられたが、彼女が主に祈ると車輪は止まり、天使が現れ傷を癒した。火の中に放り込まれても、ナイフでいっぱいの穴の上を歩いても彼女に傷はつかなかった。エウフェミアは猛獣により殺される刑を宣告され、彼女を殺すための猛獣が待つ闘技場へ入れられた。処刑の前にエウフェミアは自らの苦難と殉教を神に祈った。ライオンは彼女を殺すことはなく、ただ彼女の傷を舐めるだけであった。最後に野生の熊から足に小さな傷を与えられ、彼女は死んだとされている。4世紀末にカルケドンのエウフェミアの墓の上にバシリカが建設された。451年のカルケドン公会議はこの聖堂で開催された。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/26 00:41 UTC 版)
「ニコメディアのアドリアノとナタリア」の記事における「聖人伝」の解説
親衛隊の将官だったアドリアノはニコメディアにおいて、ガレリウスと共に22人のキリスト教徒を捕らえて拷問にかけ信仰を試した。アドリアノは彼らの信仰に感銘を受け、自らもキリスト教徒となることを宣言したために投獄され、拷問にかけられることとなった。アドリアノの妻ナタリアは、アドリアノと共に投獄されているキリスト教徒たちをひそかに応援した。迫害のために信仰を隠していたがナタリアはキリスト教徒であった。 アドリアノは足首を切り落とされ、金床の上で腿を砕かれたのち、両手を切り落とされて殉教した。また、仲間のキリスト教徒たちも彼と同じように足を切り落とされ殉教した。ガレリウスが殉教者たちの遺骸を焼き払うよう命じたため、ナタリアはこっそりアドリアノの片手を隠し持った。しかし、遺骸が火の中に放り込まれると突然の大雨で火が消え、遺骸は無事だったのでキリスト教徒の手でコンスタンティノープルに運ばれることとなった。 家に戻ったナタリアはしばらくの間、アドリアノの片手と共に暮らしていたが、護民官に求婚されたため、コンスタンティノープルに逃げ出した。コンスタンティノープルに辿り着いたナタリアはアドリアノの遺骸に手を戻すと、アドリアノの夢を見たのち、周りに別れを告げて息を引き取った。ナタリアの遺体は殉教聖人たちのそばに並べられた。
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