発掘と復元
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ニューグレンジとその秘密は塚が崩れたため、五千年近くにわたって土中に秘匿されていた。1142年、この地はシトー派のメリフォント修道院の所有する農地の一部となった。この農地は 'granges' (「農場」の意)と呼ばれた。1378年には 'the new grange' がそのまま地名となった。1688年の名誉革命の際にこの土地が没収され、チャールズ・キャンベルが新たな領主となった。1699年夏、キャンベルの使用人たちが建材用の石を探していて遺跡を発見した。彼らが最初に発見したのは、入り口にあった彫刻が施された石である。間もなく彼らは洞窟と思われるものを発見したが、さらなる調査でそれが大きな部屋に通じる人工の長く狭い通路であることが判明した。使用人たちがキャンベルにその発見を知らせると、キャンベルはウェールズの好古家で博物学者・言語学者のエドワード・ルイドに連絡した。ルイドが調査を行ったため、一般にルイドが発見者といわれるようになる。2体の人骨を発見したという「主張」により、この塚は墓だと確信されるようになった。この塚を墓とすることに最初に疑問を呈したのは、英国第10歩兵連隊所属の陸軍士官で測量技師の Charles Vallancey(アイルランド名 Cathal Uabhallansi)で、その著書 Collectanea de Rebus Hibernicus でのことだった。彼はこの巨石を使った塚が墓所というよりも天文学に関連した施設だと信じていたが、当時は嘲笑されるだけだった。1983年、マルチン・ブレナンは著書 The Stars and the Stones: Ancient Art and Astronomy in Ireland(Thames and Hudson, 1983. 1994年 The Stones of Time として再出版)で、この塚が墓所だという説がまやかしであることを詳細に論破した。 ユニバーシティ・カレッジ・コーク考古学科の Michael J. O'Kelly 教授の指揮で、1962年から1975年までニューグレンジの発掘と復元を実施した。石と芝生で覆われた塚であり、97個の大きな縁石で囲まれ、そこに白い珪岩と花崗岩でできた内側にやや傾斜した高い壁がある。石の多くは周辺(半径20km以内)のものだが、正面の壁に使われている珪岩と花崗岩の産地はもっと遠く、おそらくウィックローとダンドーク湾から運ばれたものと考えられている。 復元に際して、ほぼ垂直な鉄筋コンクリートの壁を塚の入り口から両側に建設し、そこに石壁を形成する白い珪岩などを固定するようにした。このような復元方式は特に考古学界で論争を呼んだ。批判的な考古学者は、この塚が建設された当時、このような角度で石壁を固定する技術は存在しなかったと主張している。白い珪岩は塚の前に敷き詰められ、広場になっていたという説もある。ノウスではそちらの説が採用され、復元に際して珪岩の石を塚の前に敷き詰めて広場を形成した。
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発掘と復元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/24 05:47 UTC 版)
1989年、ローズ座の遺跡はビル建設のため取り壊される予定であったが、ペギー・アシュクロフトやローレンス・オリヴィエなどの著名な俳優が保存運動を展開したことで建設計画は変更され、遺跡がビルの地下に保存される形で再設計が行われることになった。当時、建築現場に露出した遺跡は「ロンドンの最も奇妙なスポットの一つ」と呼ばれていた。パーク・ストリート56番地のブルー・プラークは、ローズ座の位置を示している。 政府、考古学者、土地開発者の三者によってこのような処置が行われたことは、土地開発プロセスにおける考古学上の活動の指針を法制化する原動力となった。マーガレット・サッチャーの保守党政権はその試みとして計画政策指針16号(英語版)を策定した。 ロンドン博物館(英語版)が発掘作業を実施したとき、後に所蔵品となる多くの遺物を発見した。劇場の土台のうち、イングレッシ(回廊席につながる木製階段)の下の空間には、果実の種子とヘーゼルナッツの殻が散らばっていた。これに対し、ヘーゼルナッツはイギリスのルネサンス時代には観劇中に食されることが多く、現代の映画館におけるポップコーンのような役割を持っていたという説が提唱されたことがあった。ヘーゼルナッツの殻は灰や土と混ぜ合わされて固い床面となり、「それはとても固く、400年後の考古学者は床を突き通すためにツルハシを手にせねばならなかった」という。ローズ劇場の建設当初、ヤードの床面(木製ステージの床下を含む)にはモルタルが敷きならされていたが、増築に伴い、シルトや灰、クリンカー、ヘーゼルナッツ殻を混合した圧縮層によって地盤固めが行われた。すなわち、先述のヘーゼルナッツ殻は観衆が残したゴミではなく、近くの石鹸工場から遺跡に持ち込まれたものである。
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発掘と復元
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遺跡はボドルム市内で一部発掘されているが、多くは市街地の下に埋まっている。市壁、神殿、劇場などの位置はほぼ判明している。 マウソロス霊廟は1857年、C・T・ニュートンが発掘し、その設計がほぼ明らかになっている。おおよそ 35m×28m の大きさで、石壇、周柱、ピラミッド型屋根、クアドリガなどからなり、表面は彫刻を施された大理石で覆われていた。周囲には一連の彫像が並んでいたと見られている。大プリニウスによれば、周柱は36本のイオニア式の柱が使われていた。柱と柱の間にも彫像が配置されていたと見られている。一部復元された部分には、ギリシア人とアマゾーンの戦いの場面が浮き彫りされている。また等身大の動物や飼育係なども描かれている。周柱と中央の部屋には下から24段の階段で登る。その上にはピラミッド型の屋根がある。 屋根の頂上にはクアドリガがあった。また、マウソロスの像も見つかっており、大英博物館にある。マウソロス霊廟の復元図は様々なものが提案されている。チャールズ・トーマス・ニュートンらの最初の復元図には各所に間違いがあるとされている。七不思議の1つとして古代から「空中で分断されている」と言われたことを考慮した E. Oldfield の復元図も遺構とは一致しない。現在最も正しいとされているのは、ドイツの考古学者 F. Adler が1900年に発表した復元図だが、その後も研究は続いている。
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発掘と復元
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1568年、San Lorenzo in Lucina のバシリカの地下でアラ・パキスの彫刻の破片が発見され、ヴィラ・メディチ、バチカン美術館、ウフィツィ美術館、ルーヴル美術館に収蔵された。1859年、イタリア代議院に近いオリンピア劇場 (en) の地下で新たな破片が見つかり、1568年に見つかった破片と同じ記念碑のものとわかった。 Friedrich von Duhn は1903年、これらのレリーフの破片がアウグストゥスの記念碑であるアラ・パキスのものと認識し、政府に対して発掘の継続を要求した。Edoardo Almagià がこの発掘を支援した。同年7月、それ以上の発掘は難しく、オリンピア劇場の安定性も損なわれかねないことが明らかとなった。アラ・パキスの約半分にあたる53の破片が回収されたころ、発掘の中止が命じられた。 1937年2月、イタリア政府はアウグストゥス生誕2000年記念事業として最新技術を使って新たに発掘を行うことを宣言した。オリンピア劇場だった場所の地下の70立方メートルの土を凍結し、祭壇の発掘を行った。1938年、ベニート・ムッソリーニは Vittorio Ballio Morpurgo に命じてアウグストゥス廟の近くにアラ・パキスを収める建物を建設させ、ファシスト党イタリアを美化する古代ローマの「テーマパーク」を作ろうとした。 現在はムッソリーニが建設させたのと同じ場所に、アメリカ人建築家リチャード・マイヤーが設計した建物がある。この新たな建物(アラ・パキス博物館)は2006年に公開され、その現代的外観がローマの風景にそぐわないとして議論を呼んだ。ニューヨーク・タイムズの Nicolai Ouroussoff はこの建物を「失敗 (flop)」だとした。2008年4月にローマ市長となった Gianni Alemanno と、同年7月に文化次官となった Francesco Maria Giro はこの建物を解体して移転させると述べている。
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