教皇派と皇帝派の対立とは? わかりやすく解説

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教皇派と皇帝派の対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)

神聖ローマ帝国」の記事における「教皇派と皇帝派の対立」の解説

詳細は「ホーエンシュタウフェン朝」を参照 叙任権闘争によって神権失った帝国は、教皇と皇帝という2つ頂点を持つことになったザーリアー朝断絶後ズップリンブルク朝皇帝ロタール3世教皇臣従したが一代絶えた。そこでロタール3世対抗していたホーエンシュタウフェン家ザーリアー朝流れをくむ新王朝となったロタール3世のシュタウフェン家との争い娘婿ヴェルフ家引き継がれた。ホーエンシュタウフェン朝と、それに対抗するヴェルフ家主導権争い長く続いたイタリアで両家争い皇帝派教皇派という都市国家間の争い変化し15世紀末まで続いて都市分裂させている。皇帝権威権力保たれ続けたあくまでもホーエンシュタウフェン朝皇帝たちの個人的な有能さよるものであり、制度的な帝権教皇との争い弱体化一途辿った一方フランスでは1180年即位したフィリップ2世尊厳王によって王権の強化進みドイツとフランス力関係逆転しつつあった。 ロタール3世先帝存命時に皇帝無視した半ば独立した勢力誇ったが、国王即位後はすぐさま逆の立場に立たされた。王と対立するシュタウフェン家は当主の弟コンラート対立王擁立し1127年より軍事衝突入った。王はシュタウフェン家を抑え込んだ後、ローマ教会要望南イタリアシチリア王国遠征した。その過程1133年58前後皇帝戴冠され、教皇臣従した。しかしシチリア打倒できぬまま、1139年62歳で死去嫡子無くズップリンブルク朝一代断絶した皇帝自身ザクセン公を継ぐことになる娘婿ヴェルフ家バイエルン公ハインリヒ10世(傲岸公)を後継者望んだ。しかし国王選挙ではシュタウフェン家のコンラート返り咲いてコンラート3世として45歳前後即位した。ここに帝国全土巻き込むシュタウフェン家とヴェルフ家対立始まりイタリアで皇帝派ギベリン)と教皇派ゲルフ)の抗争となる。 コンラート3世ホーエンシュタウフェン朝基礎築いた。その治世ヴェルフ家との内戦から始まったヴェルフ家傲岸公はコンラート3世即位認めず、王も傲岸公のザクセン・バイエルン公位没収決定したため、ヴェルフ家とシュタウフェン家の戦争となった傲岸公は捕縛され2年後死んだ戦争続き結局は傲岸の子ハインリヒ獅子公ザクセン公のみ返還したその後1147年には第二回十字軍参加して大敗した軍事面では冴えない王だったが内政面では皇帝権力の強化、シュタウフェン家の領土拡大成功収め巧み外交戦略をもってドイツ諸侯提携図った1152年、王は58前後死去皇帝として戴冠できなかった最初ローマ王ドイツ王となった嫡子はいたが僅か6歳であったため、甥である30歳前後シュヴァーベン公フリードリヒ1世として後継者指名して帝国とシュタウフェン家を託したフリードリヒ1世赤髭王バルバロッサ)は貿易豊かになっていたイタリア都市対す帝権回復目指した。赤髭王即位するとまずヴェルフ家獅子公と和解した1155年一回目のイタリア遠征において赤髭王33歳前後皇帝戴冠されたが、教皇へ臣従する儀式強制された。帰国した赤髭帝は「神聖帝国」(Sacrum Imperium)の国名用い皇帝教皇対等であって直接神の祝福受けていることを示した赤髭帝は1158年から十年に渡る二〜四回目遠征ミラノ初めとする都市国家群を征服し、ロンカーリャ(イタリア語版)の帝国議会にて多額貢納強制した。諸都市激しく抵抗し新教アレクサンデル3世皇帝破門した。諸都市ロンバルディア同盟結成し本国獅子公も四回目遠征からは参加拒否するようになった。そして1176年、五回目遠征におけるレニャーノの戦い (en) でついに赤髭帝は惨敗喫し1177年ヴェネツィア条約 (en) で教皇屈服した。しかし赤髭帝はこれを逆に好機とし、敗戦責任非協力的獅子公におしつけ1180年国外追放した。1183年イタリア都市自治認め代わりに貢納金をせしめた1184年からの六回目遠征では子のハインリヒ6世シチリア王コスタンツァ結婚させて同盟を結び、教皇領南北から圧迫した赤髭帝は中欧でもポーランドハンガリーボヘミアに対して皇帝権威認めさせた。さらにオットー3世時代失われた北東部ノルトマルクブランデンブルク辺境伯アルブレヒト熊公再征服させた。1189年赤髭帝は第3回十字軍総大将となってイスラム軍に圧勝するも、不幸に水難事故により68歳前後死去したハインリヒ6世24歳で後を継いだハインリヒ6世南イタリアにあるノルマン王朝シチリア王国併合企てた。元々1189年シチリア王グリエルモ2世が子を残さず死去した際、王位叔母婿のハインリヒ6世に回るはずであった。しかし反ドイツ派は庶子筋のタンクレーディ擁立した。さらに先帝時代からの宿敵獅子公が密かに帰国し反乱起こし始めた1191年、王は獅子公を牽制しつつシチリア遠征決行。その途上ローマにて25歳皇帝戴冠した情勢苦しかったが、ここで事件が起こる。先帝死後第3回十字軍続行した挙句パレスチナから敗走してきたイングランド王リチャード1世オーストリアで捕縛され皇帝引き渡されのであるイングランドから多額身代金得た皇帝夫妻軍勢整え1194年シチリア制圧した皇帝獅子公とも講和して先帝追放令解除し改め諸侯一人として認めた。しかしザクセン公位は返還しなかった。ザクセン公位は先帝時代東方辺境のアンハルト伯に渡っており、ザクセン公領は大幅に縮小した上で東方移動した1197年皇帝31歳急死前年ドイツ王選出されていた2歳息子フリードリヒ2世後を継ぐが、教皇派獅子の子22歳前後オットー4世擁立した皇帝派はこれに対応するため、ハインリヒ6世の弟にあたる20歳シュヴァーベン公フィリップを王に推戴した。フリードリヒ2世ドイツ王位は排除されシチリア王のみとなり、教皇インノケンティウス3世後見受けたフィリップ治世対立王オットー4世との戦い終始した1207年にはほぼ勝利を収めつつあり、ローマで皇帝として戴冠する手はず整えたが、翌年娘の結婚問題から31歳暗殺された。教皇の手引きであったともされる代わりにオットー4世1209年イタリア王、ついで皇帝として戴冠し、ついにシュタウフェン家に代わってヴェルフェン朝ヴェルフ朝)が開かれたオットー4世即位にあたって多く帝権放棄して教皇権威服する誓約をした。しかし守る気は無く、たちまち教皇との関係が悪化した1210年皇帝教皇後見するフリードリヒ2世シチリア王国遠征向かったため、激怒した教皇から破門されてしまう。フリードリヒ2世も既に15歳成長しており、翌々年には教皇フランス王フィリップ2世支援受けて対立ローマ王選出された。窮地陥った皇帝は、叔父イングランド王ジョン組んでフィリップ2世挟撃するが、1214年ブーヴィーヌの戦い大敗した1215年オットー4世皇位失い1218年43前後病死した。ヴェルフ朝は1代限りとなり、シュタウフェン朝復活したフリードリヒ2世1220年25歳皇帝戴冠された。 フリードリヒ2世明確なビジョンのもとにローマ帝国復興志したシチリア生まれ育ったフリードリヒ2世ドイツ小勢力が分立する属州見なし上で本拠シチリアを含むイタリア本土化を試みたのであるドイツでは既成事実化していた諸侯特権法的根拠与えて支持を得るとともに各々領地経営専念させた。勢力拡大した諸侯によってドイツ農民商人による東方移住促され神聖帝国影響力ポメラニアシレジアにまで拡大した1226年にはプロイセンキリスト教化のためにドイツ騎士団ポーランド招聘され修道会国家ドイツ騎士団国(Deutschordensstaat)を建国神聖帝国密接な関係を保った一方でシチリアにおいて皇帝中央集権化推し進め官僚養成公共事業実施財政改革などによって500年後絶対王政先取りし革新的な国家建設努めたシチリア地中海交易要地のため文化交流地でもあり、ルネサンス200年先がけた古代ローマ文化復興行われた。さらに先進的なイスラム文化受容しての多民族・多宗教国家建設目指された。こうした態度はやがて教皇庁との対立招き十字軍出兵渋ったことからグレゴリウス9世怒り受けて破門される。フリードリヒ2世破門されたまま1228年第6回十字軍興してアイユーブ朝のスルタンアル=カーミル交渉し無血エルサレム奪回エルサレム王位の獲得成功した。しかしイスラムと闘わなかったことで教会さらなる怒りを買い、ついには反キリストとまで非難された。十字軍以前から皇帝教皇派都市とも紛争起こしており、1232年にはドイツ総督名目的にはローマ王)の嫡男ハインリヒ反乱起こした皇帝忠実な直属イスラムをもって戦い優勢に進めたが、教皇派20年近くわたって徹底抗戦続けた。ついに皇帝勝利を確定させることなく1250年68歳死去した。後を子のコンラート4世23歳継いだコンラート4世父帝戦い継続した1237年には9歳ローマ王となっていたコンラート4世だが、父帝存命時から教皇派選出したテューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペホラント伯ヴィルヘルム・フォン・ホラントといった対立王との戦い明け暮れていた。当然教皇からの支持得られず、皇帝戴冠されないまま僅か4年1254年25歳死去したその後ローマ教皇からの支持受けたフランス王族のシャルル・ダンジューによってシチリア王国奪われ、幼い息子コッラディーノや弟のマンフレーディ殺されホーエンシュタウフェン朝断絶したこのためフリードリヒ2世によってシチリア属国群とされていたドイツは、宗主を失うことで解体してしまった。部族公領もこの時代にはバイエルン除いて分裂し縮小し、あるいは消滅してしまっていた。イタリアでも諸都市皇帝支配をはね除けたことで実態的な政体としての王国消滅し多数都市国家群に分裂した。それでも神聖帝国という枠組み普遍的支配権を持つ皇帝という概念残っていた。

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教皇派と皇帝派の対立

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イタリアの歴史」の記事における「教皇派と皇帝派の対立」の解説

詳細は「十字軍」および「教皇派と皇帝派」を参照 ランゴバルド王国以降イタリア半島は、ローマ中心とする教皇領北イタリアイタリア王国 (中世)ヴェネツィア共和国南イタリア四分される。政治的な統一失われたイタリア半島カトリック教会唯一安定した組織だと見なされ、大きな政治権力を握るようになったローマにいる教皇イタリア一部直接統治していたが、その影響力はイタリア全域とどまらずキリスト教化されたヨーロッパ中に及んでいた。752年に「ピピンの寄進」によりローマ周辺世俗的領土獲得した教皇領は、徐々に統治領域拡大1870年まで中部イタリア独立国家として存在した774年フランク王国カール大帝ローマ教皇求めに応じて北イタリア侵攻ランゴバルド王国滅ぼしイタリア北部フランク王国組み入れたカール大帝800年西ローマ皇帝として戴冠され、イタリア北部西欧における中近世ローマ帝国、後の神聖ローマ帝国として組み込まれた。843年ヴェルダン条約カロリング朝西ローマ帝国フランク王国)は、東フランク王国西フランク王国中フランク王国三分裂し、それぞれドイツ王国ドイツ・オーストリア)、フランス王国イタリア王国原型となった951年東フランク王(ドイツ王オットー1世イタリア王兼ね962年には教皇ヨハネス12世によりローマ皇帝として戴冠した以後19世紀に至るまで現在の北イタリアドイツローマ皇帝という共通の君主戴いたローマ皇帝イタリア王としての権威権利をもってイタリア介入し1012世紀三王朝時代においては皇帝定めた法が効力発揮していた。11世紀以降イタリア王としての権利主張するローマ皇帝教皇対立により、イタリア半島はしばし戦場となった(教皇派と皇帝派の対立)。11世紀初頭になるとイタリア中部北部都市、特にミラノミラノ公国1395年 - 1797年)、フィレンツェフィレンツェ共和国1115年 - 1532年)などが海運商業によって繁栄するようになり、名目上ローマ帝国傘下ありつつも実質的に独立した政治的権限を持つ都市国家へと発展する12世紀には北イタリア都市国家群がロンバルディア同盟組織しイタリアで実権を「バルバロッサ」として知られる皇帝フリードリヒ1世から防衛している。 ヴェネツィア共和国697年 - 1797年)は教皇領にもイタリア王国にも組み込まれず、コンスタンティノープルローマ帝国ビザンツ帝国)の飛び地として始まった東地中海貿易によって栄えた海洋国家であり、信教の自由法の支配徹底されていた。アドリア海沿岸広域統治下において海上貿易支配した11世紀にはアレクシオス1世コムネノスから金印勅書獲得し名目上独立を果たす。 南イタリア9世紀から12世紀までアラブ人侵略晒された。827年アラブ人シチリア島征服されムスリムシチリア征服イタリア語版英語版)、827年-902年)、シチリア首長国831年 - 1072年)が成立イタリア南部にはコンスタンティノープルローマ帝国領の他、ランゴバルド王国残党であるベネヴェント公国サレルノ侯国イタリア語版英語版)・カープア侯国イタリア語版英語版ナポリ公国イタリア語版英語版)・アマルフィ公国ガエータ公国イタリア語版英語版)、及びアラブ人支配するシチリア首長国831年 - 1072年)が分立していた。ローマ教皇求めロベルト・イル・グイスカルドはじめとするノルマン人ヴァイキングがこれら諸国征服行いノルマン人による南イタリア征服)、1130年オートヴィル朝シチリア王国成立した13世紀ホーエンシュタウフェン家ローマ皇帝シチリア王家の政略結婚により両家血を引くフリードリヒ2世誕生し成人するイタリア半島統一意志あらわにした。しかしロンバルディア同盟などの反抗によりフリードリヒ2世統一果たせなかった。その意志継いだ子孫勢力危惧したローマ教皇フランスの手借りたフランス王弟シャルル・ダンジュー送り込み1266年フリードリヒ2世息子マンフレーディ倒しシャルルシチリア王カルロ1世として南イタリア支配した1282年フランス支配に不満を持ったシチリア住民は、シチリアの晩祷呼ばれる反乱起こしシャルルナポリ追放マンフレーディ娘婿にあたるアラゴン王ペドロ3世庇護求めた。このことによりシチリア王国2つ分裂し半島側はナポリ王国呼ばれることとなった

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