二条城から大阪城への移徙
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「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「二条城から大阪城への移徙」の解説
翌10日徳川宗家の親族で小御所会議の議定・越前藩主・松平春嶽と尾張藩主・徳川慶勝が使者として慶喜のいる二条城へ来ると、「朝廷(天皇家の政体)では王政復古を仰せ出されましたが、経費がなければ国政をおこなうためのどの施設も作り難いので、朝廷があらたに国政をはじめるにあたって徳川宗家の家禄うち200万石を朝廷へ献上するよう、また上様(慶喜)がさきの内大臣も辞任されるよう朝廷は求めております」との勅諚を慶喜へ伝えた。慶喜は新たに朝廷が政務をおこなう際の経費は、諸大名一般に石高に応じて割賦で朝廷へ献上させる方が合理的と考え、「ご尤もの仰せだが、江戸幕府(徳川宗家)の石高は世に400万石と称すると申せど(表高)、その実200万石の収入にすぎず(内高)、全額を献上とあらば幕領や旗本らの差し支えも少なくないであろう。一応、老中以下にも申し聞いた上で、人心を鎮め、定めてからお請け申し上げる。両人からその旨、執奏したまわりたく存じ申し上げる」と答えた。この話の事情が漏れたか、二条城の兵士らは大いに激動しはじめ、老中らには「(要求が過剰・傲慢な)朝廷も朝廷で(日本国を一家で切り盛りしながら、代々天皇家へ仕えてきた)徳川宗家へ余りにむごいといえばむごすぎるご無法さで、我々家臣団をもないがしろにしてくるしうちだ。これは全く、薩摩人(薩摩藩の者、鹿児島人)らが、勅諚の内容をたわめているからに違いない」と、いよいよ兵力に訴えようとする議論が起きた。 11日になると二条城内外での紛擾さわぎがますますはなはだしくなり、討薩の声がかまびすしくなり、殺気がいよいよあがって、会津藩士と薩摩藩士が市中で行き合うと刃傷沙汰に及ぶ者もあらわれた。こうして二条城に控える幕府の諸藩兵と、御所に侍る薩摩藩兵の間で、戦乱勃発は必至の勢いとなった。中でも丹波亀山藩主・松平信義や若年寄兼陸軍奉行・竹中重固らは過激な挙兵論者で、また老中・板倉勝静の様な慎重な者でさえ関東へ手紙を送って歩兵隊・騎兵隊・砲兵隊の3兵隊と軍艦を関西へ送るよう促したほどだった。この日、慶喜は親しく諸隊長へ引見し「我らが割腹したと聞けば、なんじらはいかようにともせよ。だが我らが生きてかくある間は、決して妄動すべきではないぞ」と厳しく言い伝えた。慶喜はこれでも心安からず、旗本5000人あまり、会津藩兵3000人あまり、桑名藩兵1500人あまりへ命令し、城中にあつめると、もっぱら開戦の暴挙をふせぐため城外に出るのを禁じた。薩摩藩兵が二条城下に迫ったとのうわさがあり、だれが指図するでもなく大手まわりの土塀に弓矢を射る狭間を切り開いた者がおり、それをみつけ驚くとやめさせた目付もいた。また薩摩藩兵が竹屋町までおしよせたといううわさがあったとき、ますます藩屏は憤怒して相互いに争ってでも城外に出ようとした。会津藩士・手代木勝任は福井藩士・中根雪江と酒井十之丞をみて「先んずれば人を制す。いま敵を討たねば戦機を失う。二者はどう思う」と血眼で詰問すると、両人はそれは嘘の言い伝えだとしながら「天皇の目前で戦の兆しをつくれば、朝敵も同然でござる」と説得し、辛うじてなだめえた。しかし将校・兵士らの憤怒はその極度を達し、一戦を交え薩摩藩の悪謀に報いようと殆ど狂ったかのごとく叱咤、慷慨、殺気が天を衝いた。 慶喜は極力配下を制し、その思いを忖度した老中・板倉勝静や若年寄・永井尚志らも鎮撫に努めたが、会津藩・桑名藩らを主とした兵士らの激動はたやすく静まらなかった。慶喜が心を込めた兵隊への親しい説諭も、軽挙妄動の制止も、いまではその手段を使い果たし、だからといってこのまま過ごしていれば、遂には天皇の間近で流血沙汰の大惨事となる戦乱が勃発するだろうことはまた確かな状況においつめられていた。むしろ一旦この地を去って、兵士らの高まり続けている憤怒の気勢を緩和させるに越したことはないだろうと思案しはじめた。こうして慶喜は天皇のもとで騒乱が起きる事を第一に恐れ、ただ時々刻々と激しくなっていく兵士らの「薩摩藩撃つべし」の勢いを緩和しよう欲し、特に深謀遠慮があったわけではないままで、ひとまず大阪城へ退去しようとした。しかし慶喜は後年、いつでも起きかねない御所辺での戦闘から、慶喜にとって母(吉子女王)方の実家で主家にあたる天皇を守ろうとするあまり、二条城から大阪城へ配下の兵士らを伴って退去しようとしたこの一時の判断が、暗躍する薩摩藩のたわめた非道な朝命への義憤でいきり立つ配下の多勢を結果として抑えきれないまま、つづく鳥羽・伏見の戦いを引き起こした事を「一期の失策」と後悔し、「たとえ発奮している部下の兵隊に刺し殺されようとも自分は天皇のもとを泰然として一歩も動かず、(徳川宗家の旧幕府軍の主力部隊を構成していた)会津藩主と桑名藩主へ帰国(帰藩)を命じ、(内大臣をやめてから)自分ひとりでいち平大名として再び天皇家(朝廷)に公職(仕官)を願い出ればよかった」と振り返っている。慶喜は大阪城へ一時退避する決心のもと、まず近臣に命じて身辺の武具などを整理させ、二条城を退去する準備をひそかにさせはじめた。 同日(11日)慶喜は「昨夜から辞官納地の朝命が外に漏れ、みなの心はますます激昂し、予に迫って挙兵を促しておる。予は不敏な者ではあるが、朝敵の名を負って祖先を辱めるのは忍びえぬ。よって、しばらくこの地を避け、下坂(大阪へ移動)しようとぞ思う。大阪ならば鎮撫のすべも講じやすいであろう」とほとんど涙を落としかけながら、ふたたび二条城に登城してきた福井藩主・松平春嶽へいった。春嶽はその言葉を聞き、感涙して、慶喜を仰ぎ見る事ができなかった。 12日、春嶽は尾張藩主・徳川慶勝と議論して出した案――慶喜の大阪移徙(いし。わたまし。貴人の移動)後、衆心が鎮静したのを待ってから再度入京し、辞官納地を正式に受ける案をだすと、そのむねを慶喜へ言上した。慶喜はこれをこころよく許諾した。慶喜はまた会津藩・桑名藩の藩屏主力2藩へ帰国させようと、宇都宮藩主・戸田忠恕へ命じて、会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬らへ帰国のお暇(いとま)を出させようとし、ほどなく老中らの裁可が得られ、容保と定敬に伝えられた。しかし両藩兵の実際の帰国は、朝廷が両藩の主家にあたる徳川家を薩摩藩・長州藩らの武力のもと、内大臣・慶喜を排除した秘密会議(小御所会議)での朝命の名を借り、徳川宗家の地位・財産をその政権と共に簒奪しようとする「辞官納地」の無理難題であり、徳川方からの不満・反発を鑑みれば不可能だった。だからといって、慶喜が大阪へ移徙後に会津・桑名藩兵を京都にのこしておくと、どんな事態がおきるか分からなかった。慶喜は、むしろそうならば、会津・桑名藩兵をともに大阪城へつれていこうと考えた。慶喜は大阪城への移動企図の重要な一側面が、会津藩兵らの暴発を防ぐつもりでありながら、激昂している会津藩士らを刺激しないため、さもそうと思っていない風を装って会津藩の家老・田中玄清へ「薩摩人(鹿児島人、薩摩藩士)が兵の威圧で幼帝をだきかかえ奉ったので、今の所業になったのだ。緩急や遅速はあれども、彼らの罪は問うべきであろう。けれども、陛下の間近で戦闘すれば、宸襟(天子のお心)を悩まし奉るだけでなく、同時に外国勢力が好機とうかがいみて不相応な干渉を企てようとするであろうし、大戦乱も目前に開ける。そうなってしまえば、わが政権を陛下へ奉還し、万国に並び立つ国威を建てようとした予の素願も、水泡に帰してしまうであろう。ゆえに、予は一旦下坂しようと思うのだが、肥後守(松平容保)も予に同行してもらうつもりなので、なんじら部下も予と共に来たれ」といった。田中がしりぞくと、おなじ会津藩士の佐川官兵衛や林権助らは田中をみて「敵に計略があるかもしれぬ。決して夜が迫ってからのご出発であってはならぬ。たとえ内府公(慶喜公)のご出発があっても、わが容保公にご出発していただくのはならぬ」と真っ赤な顔で言い争っていた。慶喜が容保をよび、容保のあとに佐川と林がしたがって慶喜の御前(ごぜん)に至ると、老中・板倉勝静らが座にいた。慶喜が「なんじらは隊士の長だと聞く。その壮武、愛すべきである。今しきりに下坂をとめるのはなにゆえだ」と問うと、佐川と林は「もうすでに夜になりかかっております。倉卒(そうそつ)の(あわただしく急な)ご下阪は、すこぶる危うくございます。願わくば斥候を設け、兵威をおごそかにし、明朝を待ってご下阪あらせられるべきかと存じ申し上げます」と答えた。慶喜は「下坂の機会を失うべきでもなかろう。斥候はすでに配置してある。兵威もまさに張り巡らせてある。遅速や緩急はあっても、かならずや薩摩の者の罪を問おう。予に深い計略はあっても、事が内密でなければ敗れるのは明らかであるがゆえ、今は明言しない。なんじらは憂わずともよい」というと、佐川と林の両人は拝謝し、外へ出て、激昂する他の兵士を慰め諭した。 いつでも兵士暴発が起きかねない危険な二条城側の状況を伝える報告書(奏聞)で「(まだ慶喜が正式に官位を辞任していない以上、天皇家の政体(朝廷)側の事実上の内大臣のままともいえる)徳川宗家家臣団の大阪城への移動の可否について、本来なら天皇家(朝廷)の許可(勅許)を待ってから出発すべきですが、このたびの朝命の帯びている無法さへの配下の義憤はただ事ではなく、配下の暴走で天皇家側をまきこみかねない戦闘勃発の危機がいますぐそこにも迫っているため、その許可を待っている一刻の猶予もありません。ほかの手立てもありませんから、致し方なく、配下を連れて、天皇家のおわす御所と一定の距離が保てる大阪城へ即時退去させていただきます」と御所側(天皇家側、朝廷)へ届け出た。慶喜は留守居役にした水戸藩家老・大場一真斎へ二条城を預けると、城中の兵士らをこぞって集め、会津藩・桑名藩の主力部隊も引き連れ、徳川宗家の全軍をまとめて大阪城へ退去した。 慶喜はもともと勤皇の水戸藩(慶喜の実家、水戸徳川家臣団)であれば有事があっても後顧の憂いなしと考え、同藩・本圀寺党としてこれまでともに天皇を守ってきた同藩家老・大場一真斎と鈴木縫殿の2人をじきじきに召し、二条城の留守居役を命じると、手づから、腰に帯びた刀、備前一文字則宗の拵附を大場へたまわった。こうして二条城は大場を主将として留守をし、若年寄・永井尚志は物情鎮定の命令を受け城中に留まった。 また慶喜はお供の将校・兵士らを二条城中の広場に呼び、酒樽を開いて乾杯し、一同に飲ませた。『徳川慶喜公伝』によると、このときの杯は桐の紋章を描いた金製で、何千個あったか定かではないが、以前、本願寺から献上されたものだったという。酒を散じてから、慶喜は会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、老中筆頭・板倉勝静らをしたがえて、徒歩で二条城の裏門から出で立った。慶喜は途中で馬に乗り換えたが、このとき旗本・御家人らをはじめ会津藩士・桑名藩士ら随従する者が約1万人ほどに及び非常に多く、時刻は午後6時頃だった。日はすでに暮れていたので、慶喜は白い木綿を着て両腕をたすき掛けにし、他の者は片方の腕だけたすき掛けにさせ、主従を見分けられるようにした。提灯は一小隊に一個を与えただけだった。慶喜ら大行列の一行は大宮通をくだり、三条通を西へ出て、千本通をくだり、四辻にでて鳥羽街道をへて、しばらく鳥羽村で休憩した。淀の橋のもとで食事をとったが、普段は路地を掃き清め、砂を盛り、御小休憩所や御旅館などを厳にしつらえるべきであるのに、今は落ち武者ともいうべきありさまだったので、扈従(こしょう。貴人に付き従う人々)の人々は密かに涙を流さない者はなかった。八幡の闕門をすぎ、枚方駅についたとき、13日の朝日がほのぼのと白みわたるあかつきだったが、ここで慶喜は朝食を食べた。守口駅で昼食のとき、慶喜は容保をかえりみて「越中(越中守、松平定敬)も同じ事だが、6年もの久しきあいだ、誠実な心で朝廷の御為に尽くしてきたが、この体たらくに立ち至ったのは時の運というべきだろう。けれども、御所からご譴責もあるべき勢いであったのに、無事にお暇(いとま)たまわってここまでこれたのはせめてもの事で、つまるところ、貴卿らの誠実が貫通したものであろう。この節ではご賞与をこうむっても嬉しいとも思わぬが、ご譴責をこうむればなおさら遺憾なるべきだったのに、そのことがなかったのはまずまず一同さいわいであった」といった。こうして同日午後4時頃、慶喜らは大阪城についた。急な事だったので、いろいろなお迎えの用意も整っておらず、大阪城代の常陸国笠間藩主・牧野貞直がとりあえず夕食の御膳を慶喜へ勧めたが、慶喜はその半分をわけ、容保らへたまわり、お供の部下をねぎらった。 こうして徳川宗家慶喜率いる旧幕府軍は、12日夕刻には京都の二条城を出て、翌13日に大坂城へ退去した。 春嶽はこれを見て「天地に誓って慶喜は辞官と納地を実行するだろう」という見通しを総裁の有栖川宮熾仁親王に報告した。[要出典]
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