二条城から大阪城への移徙とは? わかりやすく解説

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二条城から大阪城への移徙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い」の記事における「二条城から大阪城への移徙」の解説

10日徳川宗家親族小御所会議議定越前藩主・松平春嶽尾張藩主徳川慶勝使者として慶喜のいる二条城へ来ると、「朝廷天皇家政体)では王政復古仰せ出されましたが、経費なければ国政をおこなうためのどの施設作り難いので、朝廷あらたに国政をはじめるにあたって徳川宗家家禄うち200万石朝廷献上するよう、また上様(慶喜)がさきの内大臣辞任されるよう朝廷求めております」との勅諚慶喜伝えた慶喜新たに朝廷政務をおこなう際の経費は、諸大名一般に石高に応じて割賦朝廷献上させる方が合理的考え、「ご尤も仰せだが、江戸幕府徳川宗家)の石高世に400万石称する申せど(表高)、その実200万石収入にすぎず(内高)、全額献上とあらば幕領旗本らの差し支え少なくないであろう。一応、老中以下にも申し聞いた上で人心鎮め定めてからお請け申し上げる。両人からその旨執奏したまわりたく存じ申し上げる」と答えた。この話の事情漏れたか、二条城兵士らは大い激動しはじめ、老中らには「(要求過剰傲慢な朝廷朝廷で(日本国一家切り盛りしながら、代々天皇家仕えてきた)徳川宗家余りにむごいといえばむごすぎるご無法さで、我々家臣団をもないがしろにしてくるしうちだ。これは全く、薩摩人(薩摩藩の者、鹿児島人)らが、勅諚内容をたわめているからに違いない」と、いよいよ兵力訴えようとする議論起きた11日になると二条城内外での紛擾さわぎがますますはなはだしくなり、討薩の声がかまびすしくなり、殺気がいよいよあがって会津藩士と薩摩藩士が市中行き合う刃傷沙汰に及ぶ者もあらわれた。こうして二条城控え幕府諸藩兵と、御所侍る薩摩藩兵の間で、戦乱勃発必至勢いとなった中でも丹波亀山藩主・松平信義若年寄陸軍奉行竹中重固らは過激な挙兵論者で、また老中板倉勝静の様な慎重な者でさえ関東手紙送って歩兵隊騎兵隊砲兵隊の3兵隊軍艦関西へ送るよう促したほどだった。この日、慶喜親しく諸隊長へ引見し「我ら割腹したと聞けば、なんじらはいかようにともせよ。だが我ら生きてかくある間は、決し妄動すべきではないぞ」と厳しく言い伝えた。慶喜はこれでも心安からず旗本5000人あまり、会津藩3000人あまり、桑名藩1500人あまりへ命令し城中にあつめると、もっぱら開戦暴挙をふせぐため城外に出るのを禁じた薩摩藩兵が二条城下に迫ったとのうわさがあり、だれが指図するでもなく大手まわりの土塀弓矢射る狭間切り開いた者がおり、それをみつけ驚くとやめさせた目付もいた。また薩摩藩兵が竹屋町までおしよせたといううわさがあったとき、ますます藩屏憤怒して相互いに争ってでも城外出ようとした。会津藩士・手代木勝任福井藩士・中根雪江酒井十之丞をみて「先んずれば人を制す。いま敵を討たねば戦機を失う。二者はどう思う」と血眼詰問すると、両人はそれは嘘の言い伝えだとしながら天皇目前で戦の兆しつくれば朝敵同然でござる」と説得し辛うじてなだめえた。しかし将校兵士らの憤怒はその極度達し一戦交え薩摩藩の悪謀に報いようと殆ど狂ったかのごとく叱咤慷慨殺気が天を衝いた。 慶喜極力配下制し、その思い忖度し老中板倉勝静若年寄永井尚志らも鎮撫努めたが、会津藩桑名藩らを主とした兵士らの激動たやすく静まらなかった。慶喜が心を込めた兵隊への親し説諭も、軽挙妄動制止も、いまではその手段を使い果たしだからといってこのまま過ごしていれば、遂に天皇間近流血沙汰大惨事となる戦乱勃発するろうことはまた確かな状況おいつめられていた。むしろ一旦この地を去って兵士らの高まり続けている憤怒気勢緩和させるに越したことはないだろうと思案しはじめた。こうして慶喜天皇のもとで騒乱起きる事を第一に恐れ、ただ時々刻々激しくなっていく兵士らの「薩摩藩撃つべし」の勢い緩和しよう欲し、特に深謀遠慮があったわけではないままで、ひとまず大阪城退去しようとした。しかし慶喜後年、いつでも起きかねない御所辺での戦闘から、慶喜にとって母(吉子女王)方の実家主家にあたる天皇守ろうとするあまり、二条城から大阪城配下兵士らを伴って退去しようとしたこの一時判断が、暗躍する薩摩藩のたわめた非道な朝命への義憤いきり立つ配下多勢結果として抑えきれないまま、つづく鳥羽・伏見の戦い引き起こした事を「一期失策」と後悔し、「たとえ発奮している部下兵隊刺し殺されようとも自分天皇のもとを泰然として一歩動かず、(徳川宗家旧幕府軍の主力部隊構成していた)会津藩主と桑名藩主へ帰国(帰藩)を命じ、(内大臣をやめてから)自分ひとりでいち平大名として再び天皇家朝廷)に公職仕官)を願い出ればよかった」と振り返っている。慶喜大阪城一時退避する決心のもと、まず近臣命じて身辺武具などを整理させ、二条城退去する準備ひそかにさせはじめた同日11日慶喜は「昨夜から辞官納地朝命が外に漏れ、みなの心はますます激昂し、予に迫って挙兵促しておる。予は不敏な者ではあるが、朝敵の名を負って祖先辱めるのは忍びえぬ。よって、しばらくこの地を避け下坂大阪移動)しようとぞ思う。大阪ならば鎮撫のすべも講じやすいであろう」とほとんど涙を落としかけながら、ふたたび二条城登城してきた福井藩主・松平春嶽へいった。春嶽はその言葉聞き感涙して、慶喜仰ぎ見る事ができなかった。 12日、春嶽は尾張藩主徳川慶勝議論して出した案――慶喜大阪移徙(いし。わたまし貴人移動)後、衆心鎮静したのを待ってから再度入京し、辞官納地正式に受ける案をだすと、そのむね慶喜言上した。慶喜はこれをこころよく許諾した。慶喜はまた会津藩桑名藩藩屏主力2藩へ帰国させようと、宇都宮藩主・戸田忠恕命じて会津藩主・松平容保桑名藩主・松平定敬らへ帰国お暇(いとま)を出させようとし、ほどなく老中らの裁可得られ、容保と定敬に伝えられた。しかし両藩兵の実際帰国は、朝廷が両藩の主家にあたる徳川家薩摩藩長州藩らの武力のもと、内大臣慶喜排除した秘密会議小御所会議)での朝命名を借り徳川宗家地位・財産をその政権と共に簒奪ようとする「辞官納地」の無理難題であり、徳川方からの不満・反発鑑みれば不可能だっただからといって慶喜大阪移徙後に会津桑名藩兵を京都のこしておくと、どんな事態がおきるか分からなかった。慶喜は、むしろそうならば会津桑名藩兵をともに大阪城へつれていこう考えた慶喜大阪城への移動企図重要な側面が、会津藩兵らの暴発を防ぐつもりでありながら激昂している会津藩士らを刺激しないため、さもそうと思っていない風を装って会津藩家老田中玄清へ「薩摩人(鹿児島人、薩摩藩士)が兵の威圧幼帝だきかかえ奉ったので、今の所になったのだ。緩急遅速はあれども、彼らの罪は問うべきであろう。けれども、陛下間近戦闘すれば、宸襟天子お心)を悩まし奉るだけでなく、同時に外国勢力好機うかがいみて不相応な干渉企てようとするであろうし、大戦乱も目前開ける。そうなってしまえば、わが政権陛下奉還し万国並び立つ国威建てようとした予の素願も、水泡に帰してしまうであろう。ゆえに、予は一旦下坂しようと思うのだが、肥後守松平容保)も予に同行してもらうつもりなので、なんじら部下も予と共に来たれ」といった。田中しりぞくと、おなじ会津藩士の佐川官兵衛林権助らは田中をみて「敵に計略があるかもしれぬ。決して夜が迫ってからのご出発であってはならぬ。たとえ内府公(慶喜公)のご出発があっても、わが容保公に出発していただくのはならぬ」と真っ赤な顔で言い争っていた。慶喜が容保をよび、容保のあとに佐川がしたがって慶喜御前(ごぜん)に至ると、老中板倉勝静らが座にいた。慶喜が「なんじらは隊士の長だと聞く。その壮武愛すべきである。今しきりに下坂をとめるのはなにゆえだ」と問うと、佐川は「もうすでに夜になりかかっております倉卒そうそつ)の(あわただしく急な)ご下阪は、すこぶる危うくございます願わくば斥候設け兵威おごそかにし、明朝待って下阪あらせられるべきかと存じ申し上げます」と答えた慶喜は「下坂機会を失うべきでもなかろう斥候はすでに配置してある。兵威もまさに張り巡らせてある。遅速緩急はあっても、かならずや薩摩の者の罪を問おう。予に深い計略はあっても、事が内密なければ敗れるのは明らかであるがゆえ、今は明言しない。なんじらは憂わずともよい」というと佐川両人拝謝し、外へ出て激昂する他の兵士慰め諭した。 いつでも兵士暴発起きかねない危険な二条城側の状況伝え報告書奏聞)で「(まだ慶喜正式に官位辞任していない以上、天皇家政体朝廷)側の事実上内大臣ままともいえる)徳川宗家家臣団大阪城への移動可否について、本来なら天皇家朝廷)の許可勅許)を待ってから出発すべきですが、このたび朝命帯びている無法さへの配下義憤ただ事ではなく配下暴走天皇家側をまきこみかねない戦闘勃発危機がいますぐそこにも迫っているため、その許可を待っている一刻猶予もありません。ほかの手立てもありませんから、致し方なく、配下連れて天皇家のおわす御所一定の距離が保て大阪城即時退去させていただきます」と御所側(天皇家側、朝廷)へ届け出た慶喜留守居役にした水戸藩家老大場一真斎二条城預けると、城中兵士らをこぞって集め会津藩桑名藩主力部隊引き連れ徳川宗家全軍まとめて大阪城退去した。 慶喜はもともと勤皇水戸藩慶喜実家水戸徳川家臣団)であれば有事があっても後顧の憂いなしと考え、同藩・本圀寺党としてこれまでともに天皇守ってきた同藩家老大場一真斎鈴木縫殿2人じきじき召し二条城留守居役命じると、手づから、腰に帯びた刀、備前一文字則宗の拵附を大場へたまわった。こうして二条城大場主将として留守をし、若年寄永井尚志物情鎮定命令を受け城中に留まった。 また慶喜お供将校兵士らを二条城中の広場呼び酒樽開いて乾杯し一同に飲ませた。『徳川慶喜公伝』によると、このときの杯は紋章描いた金製で、何千個あったか定かではないが、以前本願寺から献上されたものだったという。酒を散じてから、慶喜会津藩主・松平容保桑名藩主・松平定敬老中筆頭板倉勝静らをしたがえて、徒歩二条城の裏門から出で立った慶喜途中で馬に乗り換えたが、このとき旗本御家人らをはじめ会津藩士・桑名藩士随従する者が約1万人ほどに及び非常に多く時刻午後6時頃だった。日はすでに暮れていたので、慶喜は白い木綿着て両腕たすき掛けにし、他の者は片方の腕だけたすき掛けにさせ、主従見分けられるようにした。提灯は一小隊一個与えたけだった慶喜大行列一行大宮通をくだり、三条通西へ出て千本通をくだり、四辻にでて鳥羽街道をへて、しばらく鳥羽村休憩した。淀ののもとで食事をとったが、普段路地掃き清め、砂を盛り御小休憩所や御旅館などを厳にしつらえるべきであるのに、今は落ち武者ともいうべきありさまだったので、扈従こしょう貴人付き従う人々)の人々密かに涙を流さない者はなかった。八幡の闕門をすぎ、枚方駅についたとき、13日朝日ほのぼのと白みわたるあかつきだったが、ここで慶喜朝食食べた守口駅昼食のとき、慶喜は容保をかえりみて「越中越中守松平定敬)も同じ事だが、6年もの久しきあいだ、誠実な心で朝廷御為尽くしてきたが、この体たらく立ち至ったのは時の運というべきだろう。けれども、御所からご譴責あるべき勢いであったのに、無事にお暇(いとま)たまわってここまでこれたのはせめてもの事で、つまるところ、貴卿らの誠実が貫通したものであろうこの節ではご賞与こうむって嬉しいとも思わぬが、ご譴責をこうむればなおさら遺憾なるべきだったのに、そのことがなかったのはまずまず一同さいわいであった」といった。こうして同日午後4時頃、慶喜らは大阪城についた急な事だったので、いろいろなお迎え用意整っておらず、大阪城代常陸国笠間藩主牧野貞直とりあえ夕食御膳慶喜勧めたが、慶喜はその半分をわけ、容保らへたまわりお供部下ねぎらった。 こうして徳川宗家慶喜率い旧幕府軍は、12日夕刻には京都二条城出て、翌13日大坂城退去した。 春嶽はこれを見て天地誓って慶喜は辞官と納地実行するだろう」という見通し総裁有栖川宮熾仁親王報告した。[要出典]

※この「二条城から大阪城への移徙」の解説は、「鳥羽・伏見の戦い」の解説の一部です。
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