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おおさか-じょう おほさかじやう 【大坂城/大阪城】
国指定文化財等データベース |
大阪城
| 名称: | 大阪城 |
| ふりがな: | おおさかじょう |
| 名称(棟): | 大手門 |
| 名称(ふりがな): | おおてもん |
| 番号: | 1225 |
| 種別1: | 近世以前/城郭 |
| 国宝重文区分: | 重要文化財 |
| 指定年月日: | 1953.06.13(昭和28.06.13) |
| 員数(数): | 1 |
| 員数(単位): | 棟 |
| 代表都道府県: | 大阪府 |
| 都道府県: | 大阪府大阪市中央区馬場町 |
| 所有者名: | 国(文部科学省) |
| 指定基準: | |
| 管理団体名: | 大阪市 |
| 管理団体住所: | 大阪府大阪府大阪市北区中之島1丁目3番20号 |
| 管理団体指定年月日: | 1957.03.15(昭和32.03.15) |
| 構造形式: | 高麗門、本瓦葺 |
| 時代区分: | 江戸末期 |
| 年代: | 嘉永元頃(1848頃) |
| 解説文: | 大阪城は豊臣秀吉の築いた城であるが、大阪冬の陣と夏の陣に破壊された。今回指定されたものはすべてその後德川氏により築造されたものである。 乾櫓、 元和六年(一六二〇)の建築であるが、桃山時代の手法が見られ大阪城遺構中で最も古い。 千貫櫓、元和六年 金藏 寬永元年(一六二四) 金明水井戸屋形 寬永三年(一六二六) 一番櫓、六番櫓、共に寬永六年(一六二九) 焔硝櫓 寬文元年(一六六一)。石壁に石屋根を造った珍らしいもの。 大手門、塀(三棟)、夛聞櫓 共に嘉永元年(一八四八) 櫻門 江戸末期 なお大阪城は旧陸軍所有であったため重要文化財に指定されなかったもので 現在破壊がいちじるしいが、地元大阪市ではすでに修復委員会(委員長大阪市長中井光次氏)を結成し修復運動を起すとともに文化財保護委員会の指導のもとに最も破壊の甚しい六番櫓、一番櫓から始めて漸次全体に及ぶ応急修理に着手しようとしているが今回指定を見たので委員会としては更めて修理の根本的対策を立てる。 |
大阪弁 |
大阪城
| 大阪弁 | 訳語 | 解説 |
|---|---|---|
| 大阪城 | -- | 石山本願寺跡に豊臣秀吉が築城し、炎上の後、徳川家康がその上に建てた城。長年天守閣が存在しない状態だったが、市民の寄付で天守閣を再建。天守閣は鉄筋コンクリート造で、エレベータ完備。大阪のシンボル。 |
地名辞典 |
ウィキペディア |
大坂城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/05 01:53 UTC 版)
(大阪城 から転送)
|
大坂城 (大阪府) |
|
|---|---|
大手門(手前)と天守
|
|
| 通称 | 金城、錦城 |
| 城郭構造 | 輪郭式平城または平山城 |
| 天守構造 | 複合式望楼型(豊臣期・1585年築) 独立式層塔型5重5階地下1階(徳川期・1626年再) いずれも非現存 独立式望楼型5重8階(1931年SRC造復興) |
| 築城主 | 豊臣秀吉 |
| 築城年 | 1583年(天正11年) |
| 主な改修者 | 徳川秀忠 |
| 主な城主 | 豊臣氏、奥平氏、徳川氏 |
| 廃城年 | 1868年(明治元年) |
| 遺構 | 櫓、門、石垣、堀 |
| 指定文化財 | 国の重要文化財(櫓・門など) 登録有形文化財(再建天守) 特別史跡 |
| 再建造物 | 天守 |
| 位置 | 北緯34度41分14.56秒 東経135度31分33.04秒 |
大坂城・大阪城(おおさかじょう[1])は、摂津国東成郡大坂(現在の大阪市中央区の大阪城公園)にあった安土桃山時代から江戸時代の城である。別称は金城あるいは錦城で、大坂が近代に大阪と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多い。
目次 |
概要
通称「太閤さんのお城」とも呼ばれているが、1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などは徳川氏、徳川幕府によるものであることがわかっている。
大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失した後、豊臣秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改めさせ豊臣氏の影響力と記憶を払拭するように再建したとされる。その後、幕府の近畿地方、および西日本支配の拠点となった。姫路城、熊本城と共に日本三名城の一つに数えられている。
現在は、昭和初期に復興された天守と幕末期の櫓や門などが現存し、城跡は、国の特別史跡に指定されている。
歴史・沿革
安土桃山時代
上町台地のほぼ北端、石山本願寺の跡地に1583年(天正11年)、豊臣秀吉が築城を開始した。
完成に1年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施された。秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、3重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施された。天守は、絵画史料では外観5層で、「大坂夏の陣図屏風」や「大阪城図屏風」では外壁や瓦に金をふんだんに用いた姿で描かれており、それに則した復元案が多くある。大坂城の普請中に秀吉を訪問し、大坂城内を案内された大友宗麟は、大坂城を三国無双(さんごくぶそう)と称えた。
築城者である秀吉自身は、京都に聚楽第、伏見城を次々に建造し、大坂城よりもそれらに居城した。1599年(慶長4年)秀吉の死後、秀吉の遺児豊臣秀頼が伏見城から、完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した五大老の徳川家康も大坂城西の丸に入って政務を執った。
江戸時代
1603年(慶長8年)に徳川幕府が成立した後も、秀頼(ひでより)は大坂城に留まり摂津・河内・和泉を支配していたが、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で家康によって構成された大軍に攻められ、篭城戦を行った。そして、その講和に際して惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡した。
落城に際して、灰燼に帰した大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられたが、1619年(元和5年)に幕府直轄領(天領)に編入された。翌1620年(元和5年)から、2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成した。
幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、これも譜代大名からなる2名の大坂定番と4名の大坂加番が警備を担当した。江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返した。特に1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城であった。
江戸末期、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡された。この前後の混乱のうちに出火し、城内の建造物のほとんどが焼失した。
近代
明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用した。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地には、主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられ、このため後の太平洋戦争時は米軍の爆撃目標となる。
- 1870年(明治3年)、陸軍は午砲台を設置して報時業務を開始した。
- 1885年(明治18年)、和歌山城二の丸より御殿の一部が移築され、「紀州御殿」と命名される。紀州御殿は、大阪鎮台の司令部庁舎として利用された。
- 1888年(明治21年)、大阪鎮台によって本丸桜門が復元された。
- 1928年(昭和3年)、当時の大阪市長、關一が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案し昭和天皇の即位記念事業として整備が進められた[2]。集められた市民の募金150万円によって陸軍第4師団司令部庁舎[3] と天守の建設がすすめられた。天守閣の基本設計は波江悌夫が行い、再建工事は1930年(昭和5年)に始まり、翌年に完成した。
- 1931年(昭和6年)、復興天守、第4師団司令部庁舎竣工。大阪城公園開園。
- 1933年(昭和8年)、紀州御殿を「天臨閣(てんりんかく)」と改称した。
- 1942年(昭和17年)、防諜のため城内への一般人の立入が禁止される。
- 大阪大空襲など太平洋戦争中の空襲では、1868年(慶応4年)の火災では被害を免た二番櫓・三番櫓・未申櫓・伏見櫓・京橋口門を焼失、また青屋門に甚大な被害を受けた。特に本土終戦前日の8月14日の空襲は、1トン爆弾が多数投下され、近隣の京橋駅も巻き添えとなり、避難していた乗客に多数の死傷者が出たほどだった。このとき毎日新聞大阪本社屋上から撮影された「天守閣の背景に黒煙が濛々と上がる」光景は、後に「大阪夏の陣」などとも呼ばれた[要出典]が、天守閣は被害を免れた。
現代
終戦後城内の陸軍用地は占領軍に接収された。1947年(昭和22年)に占領軍の失火により紀州御殿を焼失した。
1948年(昭和23年)の接収解除後は建物の修理が進められ、大阪城公園の再整備も始まり、外堀を含む広域が公園地となった。
1950年(昭和25年)のジェーン台風によりまたもや損傷を受けたことから、本格的な補修事業が開始された。あわせて学術調査も行われ、1959年(昭和34年)には地下から豊臣時代の遺構が発見された。本丸内の司令部庁舎の旧施設は一時大阪府警本部の庁舎(後に大阪市立博物館)として使用され、石垣に囲まれた一角では拳銃の射撃訓練も行われた(大阪府警の射撃場は公園内玉造口付近に現存)。大阪陸軍造兵廠跡は、長らく放置され、残された大量の鉄や銅の屑を狙う「アパッチ族」が跳梁し小松左京や開高健の小説の舞台ともなった。
1981年(昭和56年)、保存運動や文化庁の調査指示があったにもかかわらず、それらを無視した大阪市が大阪陸軍造兵廠旧本館を取り壊す。
1983年(昭和58年) 「大阪築城400年まつり」に合わせ、国鉄大阪環状線に「大阪城公園駅」が新設され、大阪陸軍造兵廠旧本館跡地には大阪城ホールが開館された。弁天島には次々と大企業のビルが建ち並び、「大阪ビジネスパーク」が完成した。
復興天守は現在も健在であり、大阪の象徴としてそびえ立ち、周囲には大阪城公園が整備されている。
1996年(平成8年)、桜門と太鼓櫓跡が修復され、さらに大阪陸軍造兵廠の敷地拡張のために大正初期、陸軍によって埋められた東外堀が総事業費25億円、三年がかりで復元、修復される。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(54番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
2007年(平成19年) 大阪城の不動産登記に関して、建物としては未登記であり、登記上の土地の所有者は旧陸軍省であるということが判明した。実務上は、建物の所有者は大阪市であり、土地は国からの借用であるということになっている。
なお、現在は「財団法人大阪市博物館協会 大阪城天守閣」として8階建ての場内が一般公開されている。
構造
台地北端を立地とする大坂城では、北・東・西の3方は台地上にある本丸からみて低地になっている。北の台地下には淀川とその支流が流れており、天然の堀の機能を果たすとともに、城内の堀へと水を引き込むのに利用された。
大坂城は、豊臣氏が築城した当初の城と、その落城後に徳川氏が再建した城とで縄張や構造が変更されている。現在地表から見ることができる縄張はすべて、江戸時代のものである。ただし、堀の位置、門の位置などは秀吉時代と基本的に大きな違いはないとされている。
豊臣氏大坂城
縄張は輪郭式平城であり、本丸を中心に大規模な郭を同心円状に連ね、間に内堀と外堀を配する。秀吉は大坂の市街から天守がよく見えるよう天守の位置、街路などを工夫したとも伝えられている。丹羽長秀が築城した安土城の石垣をそのまま踏襲しており、現在の大坂城の地下7mから当時の石垣が発見されている。
台地の北端を造成して築城した大坂城の防衛上の弱点は大軍を展開できる台地続きの南側で、西方から南方を囲むように惣堀がめぐらされ、冬の陣直前には玉造門の南方に真田信繁により半月形の出城「真田丸」が構築された。果たして冬の陣は、この方面から攻めかかる徳川方と篭城の豊臣方との間で激戦となった。
徳川氏大坂城
徳川氏の大坂城は豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだので、豊臣大坂城の遺構は地中に埋もれた。また、天守など建物も構造を踏襲せずに造り替えられた。
徳川氏の目的は、この改修工事を口実として、諸藩に財政を支出させ、抵抗する勢力の力を削ぐことであった。 その結果、城郭の広さは豊臣時代の4分の1の規模になったが、総床面積から高さまで豊臣氏の天守を越えるものが上げられ、二重の堀は江戸城をしのぐ程のものとなった。
天守
大坂城の天守は現在までに三度造営されているが、いずれも外観、位置等が異なる。以下に記した。
初代天守(豊臣大坂城)
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豊臣大坂城のものと見られている平面図「本丸図」では、山里曲輪とを隔てる本丸の詰の石垣沿い、本丸の北東隅に描かれている。天守台いっぱいには建てられず、若松城天守のように余地を残して天守曲輪を持っていたと考えられている。天守は、複合式もしくは連結式望楼型5重6階地下2階であったと考えられており、外観は、黒漆塗りの下見板張りで、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や、瓦(金箔瓦)などに施された金を目立たせたと考えられている。一説には、壁板に金の彫刻を施していたというものもある。なお、5階には、黄金の茶室があったといわれている。最上階は、30人ほど入ると関白の服に触れるほどであったとルイス・フロイスの「日本史」にある(学研 『大坂城』1994年)。 天守の復元案には、大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)、大坂冬の陣図屏風、大坂城図屏風などが参考にされている場合が多い。特に大坂夏の陣図と冬の陣図では天守の姿が大きく異なっているため、夏の陣のものは再建または改築されたものであるといい、それに沿った復元案も三浦正幸などから出されている。黒田屏風の姿に近い宮上茂隆の復元案は、大阪城天守閣内の豊臣大坂城再現模型のモデルになっている。 |
元和期天守(徳川大坂城)
徳川氏が再建した大坂城の天守は、現在見られる復興天守(大阪城天守閣)の位置とほぼ同じである。江戸城の本丸・初代天守の配置関係と同配置に建てられたと見られている。天守台は大天守台の南に小天守台を設けているが小天守は造られずに、天守曲輪のような状態であった。天守へは、本丸御殿からの二階廊下が現在の外接エレベータの位置に架けられていた。
建物は独立式層塔型5重5階地下1階で、江戸城天守(初期)を細身にしたような外観で、白漆喰塗籠の壁面であったとみられている。最上重屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、以下は本瓦葺であったという。高さは天守台を含めて58.32メートルあったとみられている。このことから江戸城の初代天守の縮小移築との説もある。
天守の図面は、内閣文庫所蔵の「大坂御城御天守図(内閣指図)」と、大坂願生寺所蔵の「大坂御天守指図(願生寺指図)」の2つがある。2つの指図は相違しており、内閣指図の外観は二条城天守とほぼ同じ破風配置で願生寺指図の外観は江戸城天守とほぼ同じ破風の配置である。
復興天守
現在、大坂城(大阪城)を象徴し、大阪市の象徴となっているのが、大阪城天守閣(右写真)である。陸軍用地であった旧本丸一帯の公園化計画に伴って1928年(昭和3年)に当時の大阪市長關一によって再建が提唱され、市民の寄付金により1931年(昭和6年)に竣工した。この市民の寄付には、申し込みが殺到したため、およそ半年で目標額の150万円(現在の600億から700億円に相当する)が集まった。昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。
建物は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎をした上に、鉄骨鉄筋コンクリート造[4]にサスペンション工法を用いて建てられた。高さは54.8メートル(天守台・鯱を含む)。復興天守の中は博物館「大阪城天守閣」として利用されている。
外観は、大坂夏の陣図屏風を基に、大阪市土木局建築課の古川重春が設計、意匠は天沼俊一、構造は波江悌夫と片岡安、施工は大林組が担当した。設計の古川は、建築考証のために各地の城郭建築を訪ね、文献などの調査を行って設計に当たっておりその様子は古川の著書『錦城復興記』に記されている。
大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所や外観が異なるが、復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵を描いている。この折衷に対しては諸々の議論があり、豊臣時代の形式に統一するべきとする意見もある。
1995年(平成7年)から1997年(平成9年)にかけて、平成の大改修が行われた。この時、建物全体に改修の手が加えられ、構造は阪神・淡路大震災級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。また、身体障害者や高齢者、団体観光客向けにエレベーターが小天守台西側(御殿二階廊下跡)に取り付けられた。2007年(平成19年)の外壁の塗り替えの際には、5層目の塗装がより豊臣時代に近いデザインに改められた。
豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも短期間に焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後80年を迎え、最も長命の天守になった。1997年(平成9年)9月3日、国の登録有形文化財に登録された。
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