ポーツマス条約
「ポーツマス条約」とは、1905年に日本とロシアとの間で締結された日露戦争に関する講話条約の名称である。調印式が行われた場所であるアメリカのポーツマスの名にちなむ。「日露講話条約」と呼ばれることもある。
「ポーツマス条約」の基本的な意味
「ポーツマス条約」は、1905年9月にアメリカ国内で調印された日本とロシア間の日露戦争の講話条約である。日露戦争で常に優位に立っていた日本は、日本海海戦の勝利後、これ以上の戦争の継続は限界だと判断する。国力の面で戦争を続けることはほぼ不可能となったため、当時、国際的な権限を高めていたアメリカに対して仲介を求めた。日本がアメリカに対して仲介を求めたのは、ロシアに直接「講話をしたい」と持ち掛けると、日本がロシアに負けたことを認める形になりかねなかったためである。講話は時刻に有利な条件で結ぶ必要があったため、当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに講話の斡旋を依頼することにした。当時アメリカはロシアとの関係も良好であり、日本に対しても戦費の貸付に応じるなど関係は良好だった。アメリカとしても、清国がアジアの支配を強めつつあることを警戒していたり、アジア進出への出遅れを取り戻してアジアに対する発言力を強めたいという意向を持っていたりしたため、仲介役としての口利きにはメリットがあった。
講話条約の調印式が行われた場所がアメリカのニューハンプシャー州にあるポーツマス(Portsmouth)である。日本からは当時の外務大臣だった小村寿太郎が、ロシアからはロシア帝国の蔵相だったセルゲイ・ウィッテ(Sergey Vitte)が全権大使として出席した。
日本は、ロシアが朝鮮半島から手を引き、日本の朝鮮支配を認めること、具体的には「遼東半島の租借権と鉄道を日本に渡すこと」をロシアに対して求めた。あわよくば賠償金と樺太の権利を日本に渡すことも求めようとした。これに対し、ロシア側は、賠償金は一切払わない、土地も一切日本に渡さないという姿勢を貫いた。交渉は難航した。
交渉が難航する中、ロシア側は、交渉の落とし所として、樺太の南半分だけなら日本に渡しても良いと提案してきた。これを受け入れる形で交渉は進むことになった。
条約には、ロシアは日本による韓国への指導・監督を認めること、ロシアは清国から借りていた満洲南部の鉄道の利権を日本に渡すこと、ロシアは樺太の南側を日本に渡し、また北方での日本の漁業権を認めること、などの条件も加えられた。総じて、日本は交渉によって多くの成果を得たといえる。
当時の日本の世論は、日露戦争は日本がロシアに勝った戦争であると認識されていた。それなのにロシアから賠償金が引き出せなかったことで、国民は不満を募らせた。ある者は東京の日比谷公園で抗議運動を起こし、これが暴動に発展して東京各地の交番などが焼き討ちに遭う事態(「日比谷焼打事件」)に至った。
「ポーツマス条約」の使い方・例文
・1905年に日本とロシア間でポーツマス条約が結ばれた。・ポーツマス条約の交渉に挑んだのは小村寿太郎だ。
・ポーツマス条約の仲介役を担ったのはアメリカである。
・日本国内ではポーツマス条約の内容を不満に思った国民が、日比谷焼打事件を起こした。
・ルーズベルト大統領はポーツマス条約の仲介の業績が評価され、ノーベル平和賞を受賞した。
ポーツマス‐じょうやく〔‐デウヤク〕【ポーツマス条約】
ポーツマス条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/28 19:05 UTC 版)
ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく、英: Treaty of Portsmouth, or Portsmouth Peace Treaty、露: Портсмутский мирный договор)は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシアの間で結ばれた日露戦争の講和条約[1]。日露講和条約とも称する。
注釈
- ^ ポーツマス造船所自体はメイン州に位置する。
- ^ 米露間の外交関係は、日米関係のそれよりも歴史が古く、アメリカとロシアはたがいに大使を派遣しあっていたが、日本とアメリカでは公使を派遣しあうにとどまっていた。
- ^ セオドア・ルーズベルトは「(日本への)同情が欠如している」として駐韓米公使の選任を変更したこともあるほどで、日本海海戦の際も一日中そのニュースだけを追い、ルーズベルト自身「私は興奮して自分の身はまったく日本人と化して、公務を処理することもできず終日海戦の話ばかりしていた」と、その日のことを振り返っている[6]。
- ^ 小村外相や長岡外史参謀次長はロシアとの講和条件を少しでも日本側に有利なものとするために講和会議に先立って樺太を占領すべきであると考え、長岡はこれを軍首脳に上申したが、海軍は不賛成で参謀総長山縣有朋もこれに同意しなかった。そのため長岡は満洲軍の児玉源太郎に手紙を書いて伺いを立て、その返信を論拠に説得作業を展開、樺太攻撃を決めた。ロシアは講和の準備中での日本軍の軍事作戦に怒ったが、ルーズベルトは黙認した[8]。
- ^ 伊藤博文はロシアと戦うことに対しては終始慎重な態度をとり続け、「恐露病」と揶揄されることさえあった。1901年11月、伊藤が自ら単身モスクワ入りして日露提携の道を探ったことが、逆にロシアとのあいだでグレート・ゲームを繰り広げていたイギリスを刺激する結果となり、翌1902年1月の日英同盟締結へとつながったことはよく知られている[10]。
- ^ ロシア軍は伝統的に攻めには弱い一方、守りに強く、持久戦になれば地勢的な縦深性や厳しい気候上の特性(バートラム・ウルフによれば「距離将軍」「冬将軍」)を活用して侵入者の兵站ラインを遮断して反撃に転じる。19世紀初頭のナポレオン・ボナパルトや後世のアドルフ・ヒトラーなども、このロシアの戦術により、結局は敗退している[17]。
- ^ 小村の表敬訪問の際、「大統領はなぜ日本に対して好意をお持ちですか」という質問に対し、ルーズベルトは英訳の『忠臣蔵』を示したといわれる[21]。
- ^ このことは、日本国内でも条約締結後の10月に「小村の新聞操縦の失敗」として『大阪朝日新聞』で批判記事が掲載された[24]。
- ^ ポーツマス市は、小村壽太郎の出身地である宮崎県日南市とは姉妹都市の関係にある。
- ^ ポーツマス講和会議に関するフォーラムの開催やホテルの保存運動に尽力したニューハンプシャー日米協会会長のチャールズ・ドレアックに対し、日本政府は2011年6月、日米の友好親善に寄与したとして旭日小綬章を授与している[35]。
出典
- ^ a b c d e f "ポーツマス条約". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2021年1月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 永峰 2001, pp. 29–37
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- ^ a b 若狭和朋『日露戦争と世界史に登場した日本 : 日本人に知られては困る歴史 』2012, ISBN 9784898311899
- ^ 国際派日本人養成講座「地球史探訪:ポーツマス講和会議」
- ^ 永峰 2001, p. 34
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- ^ チャールズ・B・ドレアック・ニューハンプシャー日米協会会長,旭日小綬章を受章 在ボストン日本国総領事館、2020年10月14日閲覧
- ^ ポーツマス市で多彩な行事/日露講和条約の調印記念日(四国新聞社)
- ^ “一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問主意書” 2011年3月21日閲覧。
- ^ “衆議院議員鈴木宗男君提出一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問に対する答弁書” 2011年3月21日閲覧。
- ^ アジア歴史資料センター B04011009100
ポーツマス条約
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「ポーツマス条約」も参照 1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦での完全勝利は、日本にとって講和への絶好の機会となった。5月31日、小村は、開成学校時代の同級生でもある高平小五郎駐米公使にあてて訓電を発し、中立国アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に「直接かつ全然一己の発意により」日露両国間の講和を斡旋するよう求め、命を受けた高平は翌日「中立の友誼的斡旋」を大統領に申し入れた。桂首相が日本の全権代表として最初に打診したのは伊藤博文であったが、側近が反対して伊藤は辞退した。結局、日露講和会議の全権委員には小村と高平駐米大使が選ばれ、7月4日、2人に全権委任状が手渡された。小村が全権を引き受けたのは、外相就任のときと同じで、自分にとって損か得かについては一顧だにしなかった。ロシア側全権は、元蔵相のセルゲイ・ウィッテと駐米大使(前駐日公使)のロマン・ローゼンであった。 日本は日露戦争に勝利したものの、この戦争に約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達していた。満州軍総参謀長の児玉源太郎は、1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の兵と15億円の戦費を要するとして、続行は不可能と結論づけていた。とくに専門的教育に年月を要する下級将校クラスが勇敢に前線を率いて戦死した結果、既にその補充は容易でなくなっていた。一方、ロシアは、海軍は失ったもののシベリア鉄道を利用して陸軍を増強することが可能であり、新たに増援部隊が加わって、日本軍を圧倒する兵力を集めつつあった。 1905年6月30日、桂内閣は閣議において小村・高平両全権に対して与える訓令案を決定した。その内容は、「甲・絶対的必要条件」として(1)韓国を日本の自由処分にゆだねること、(2)日露両軍の満州撤兵、(3)遼東半島租借権とハルビン・旅順間の鉄道の譲渡の3点、そして、「乙・比較的必要条件」として(1)軍費の賠償、(2)中立港に逃げ込んだロシア艦艇の引渡し、(3)樺太および付属諸島の割譲、(4)沿海州沿岸の漁業権獲得の4点、さらに、「丙・付加条件」として(1)ロシア海軍力の制限、(2)ウラジオストク港の武装解除の2点であった。7月5日、訓令案は裁可された。 当時の日本の世論は、連戦連勝の報道を得て、多額の賠償金や領土の割譲を熱狂的に叫んでおり、7月8日、小村が日本を出発する際、新橋停車場に集った群衆は大歓声を上げてこれを送ったが、小村はそばを歩く桂首相に「帰国する時には、人気は全く逆でしょうね」と語ったといわれる。井上馨は、小村に対し涙を流して「君は実に気の毒な境遇に立った。いままでの名誉も今度で台なしになるかもしれない」と語ったといわれている。小村は、戦勝の興奮に支えられた世論を納得させることがいかに難しいことなのかをよく知っていた。7月20日、シアトルに上陸した小村は東部へ向かい、ニューヨークには7月25日に到着、ワシントンDCでルーズベルト大統領を表敬訪問して、仲介を引き受けてくれたことに謝意を表明した。講和交渉のおこなわれるポーツマスには8月8日に到着した。 ニューヨークに着いたウィッテはジャーナリストに対しては愛想良く対応して、洗練された話術とユーモアにより、米国世論を巧みに味方につけていったのに対し、小村は「われわれはポーツマスへ新聞の種をつくるために来たのではない。談判をするために来たのである」とそっけなく答えた。小村はまた、マスメディアに対し秘密主義を採ったため、現地の新聞にはロシア側が提供した情報のみが掲載されることとなった。 講和会議は8月10日から始まったが、8月12日の第2回本会議においてロシアのウィッテ全権は、韓国を日本の勢力下に置くことについて、日露両国の盟約によって一独立国を滅ぼしては他の列強からの誹りを受けるとして反対した。しかし、強気の小村はこれに対し、今後、日本の行為によって列国から何を言われようと、それは日本の問題であると述べ、国際的批判は意に介せずとの姿勢を示した。ウィッテも頑として譲らず、交渉は初手から暗礁に乗り上げた。これをみてとったロマン・ローゼンは、この議論の一部始終を議事録にとどめ、ロシアが日本に抵抗した記録を残し、韓国の同意を得たならば、日本の保護権確立を進めてもよいのではないかという妥協案をウィッテに示した。小村もまた、韓国は日本の承諾がなければ、他国と条約を結ぶことができない状態であり、すでに韓国の主権は完全なものではないと述べた。ウィッテは小村の主張を聞いて、ローゼンの妥協案を受け入れた。 ウィッテらはその後も賠償金支払いや領土割譲については論外であるとの強硬な姿勢をくずさず、交渉は難航した。一時は双方交渉を打ち切って帰国することまで覚悟したが、最終段階で南樺太のみの割譲で妥結した。ルーズベルトの助言もあって日本軍は樺太全島を占領していたが、そのうち北緯50度線以北については無償で返還するかたちになったので、これは小村にとっても失敗と感じられるものであっただろうと考えられる。外務省の後輩にあたる石井菊次郎によれば、その後の小村は樺太について口にすることを嫌がったという。 とはいえ、樺太と賠償金以外については、絶対的必要条件はすべて満たし、比較的必要条件の(2)(4)についても盛り込まれており、これらは日本軍が朝鮮半島と満洲南部を占領したうえで休戦したという状況の上に立ったものではあった。現実的にみて、日本政府の立場からは講和交渉の結果は成功を収めたといえたが、日本の民衆には条約内容に不満をもつ者も多かった。日露戦争で多くの負担を強いられてきた民衆の怒りは日比谷焼き討ち事件として爆発し、当日の参加者のなかには「小村を斬首せよ」と叫ぶ者もあったという。条約に不満をいだく人びとのなかには、小村の家族を脅迫したり、襲撃しようとしたりする者さえあった。 小村は条約を調印した翌日の9月6日、ニューヨークで体調をくずし、肺尖カタルに罹って治療に専念した。健康がある程度回復したとみられた9月27日、アメリカを発ち、バンクーバーを経由して日本に帰国した。船中で小村は、「韓満施設綱領」を書き、韓国は日本の主権範囲、満洲南部は日本の勢力範囲に帰したという情勢判断にもとづき、その後の韓国・満洲政策の指針とした。
※この「ポーツマス条約」の解説は、「小村壽太郎」の解説の一部です。
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