日本とロシア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 06:13 UTC 版)
「ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー」の記事における「日本とロシア」の解説
奥蝦夷の住民アイヌは、奥蝦夷、蝦夷(現在の北海道)とタタール沿岸(アジア大陸本土)の地図を書いて見せた。ラ・ペルーズは、樺太とアジア大陸の間の海峡(間宮海峡。タタール海峡とも呼ばれる)を調査するため海峡の手前まで北上したが、海峡の水深がきわめて浅いことを島民から聞きその通過を断念。進路を南へ変えて、8月に宗谷海峡(樺太と北海道の間の海峡。彼に因んで後にラ・ペルーズ海峡と名付けられた)を航海し、そこでアイヌ民族と出会い、千島列島を探検。最終的には、1787年9月7日、カムチャツカ半島のペトロパヴロフスクに到着した。ここで彼らは休息をとり、ロシア人とカムチャツカ半島人らの歓待を楽しんだ。彼は、パリからの手紙を受け取り、イギリスが植民しているニュー・サウス・ウェールズの調査を命じられた。探検隊には駐クロンシュタットのフランス副領事ジャン・バルテルミ・ド・レセップス(スエズ運河開発者フェルディナン・ド・レセップスの叔父)が通訳として探検に加わっていたが、彼はこの地で下船し、1年がかりでシベリアとロシアを横断して探検の記録をフランスへ持ち帰った。結果として、彼はラ・ペルーズ探検隊唯一の生還者となった。
※この「日本とロシア」の解説は、「ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー」の解説の一部です。
「日本とロシア」を含む「ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー」の記事については、「ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー」の概要を参照ください。
- 日本とロシアのページへのリンク