日英同盟とは? わかりやすく解説

にちえい‐どうめい【日英同盟】

読み方:にちえいどうめい

明治35年(1902)日本英国との間に結ばれた同盟条約ロシアアジア進出牽制(けんせい)を目的とし、一方締結国が2国以上と戦争状態に入った時には他方締結国参戦することを協約した。日本第一次大戦参戦根拠ともなったが、大正11年(1922)に廃止


日英同盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 08:41 UTC 版)

日英同盟(にちえいどうめい、: Anglo-Japanese Alliance)は、日本イギリスとの間の軍事同盟(攻守同盟条約)である[1]


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日英同盟

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小村壽太郎」の記事における「日英同盟」の解説

「日英同盟」も参照 日英交渉なされているさなか、日露協商模索していた伊藤博文ヨーロッパ旅立ったのと入れ違い小村帰国し9月21日正式に外相任命された。したがってイギリスとは同盟交渉を、ロシアとは将来連携見据えて意見交換を、それぞれ併行して進めるという9月11日会合小村出席していなかった。10月8日小村公使同盟交渉開始訓令し、交渉のための正式な権限与えた11月入りイギリス側から具体的な同盟条約草案示されたが、同時にイギリスからはダブル·ディーリング、すなわち二股交渉への警告思いかけずも発せられた。日本政府部内では日英同盟と日露協商相互に対立するものではなかった。しかし、イギリスからの警告は、山縣9月時点での二兎を追う発想から日英同盟最優先発想へと傾斜させた。 12月7日葉山別邸で、伊藤大山巌を除く、山縣井上西郷従道松方正義の4人の元老小村加えた元老会議開かれた。ここで小村は「日英協約に関する意見」を提出し韓国問題日本希望通り解決するためにはロシアとの間の単純な二国間交渉だけでは到底無理であり、交戦も辞さずの決心を示すか、さもなくば第三国と結び、その共同勢力利用してロシアやむを得ず日本要求応じさせるかのどちらかしかない論じた。そして小村は、日露協商は仮に成功して利点少ないと主張した。その理由として、日露協商東洋平和を維持して一時的なものとどまってしまうこと、経済上の利益少ないこと、清国人感情を害すること、イギリス感情を害し結果として同国海軍力拮抗する必要が生じることの4点挙げた。これは、小村自身ロシアへ不信感表したものではあったが、一方で日英同盟のメリットとして、恒久的な東洋平和、清国における門戸開放韓国問題解決財政上の便益通商上の利益防衛負担軽減など7点挙げている。小村このような二者択一的な問題設定行ったのは、9月11日決定縛られ自由な立場にあったうえに、イギリスからの警告重くみたためと考えられる。ただし、小村はこのとき、むしろロシアとの戦争避けるために日英同盟論を展開していた。元老会議先立って根回しをしており、11月30日山縣12月2日西郷12月5日松方同意得ていた。これに小村意見書奏功して、伊藤による日英同盟締結延期具申があったにもかかわらず結果的に元老会議では全会一致というかたち日同盟締結案を可決したであった元老会議終了後小村反対なしで日英同盟推進路線可決されたことを林董駐英公使報告し続いて閣議決定された日本側による協約修正案伝えた12月12日16日・ランズダウン会談開かれその都度小村公使指示あたえたが、現地交渉は必ずしも順調とはいえなかった。しかし、その間ロシアとの交渉行っていた伊藤博文が、あまりに妥協的なロシア態度業を煮やし日露協商そのもの断念してしまった。1902年に入るとイギリス姿勢軟化しランズダウン侯爵公使修正案示され1月18日・ランズダウン会談ののち、イギリス側閣議経た修正案1月24日公使提出され、それを受けて1月29日日本側も閣議決定行って修正案受諾、翌1月30日に日英同盟条約ロンドン調印されのである。 日英同盟成立当時日本国民日本国家は喜び小村は日英同盟締結の功により男爵授けられた。小村には勲一等賜金1万円与えられた。各地開かれた日英同盟祝賀会小村何度招かれており、政権内での小村威信高まった

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日英同盟

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エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「日英同盟」の解説

1895年日清戦争後列強諸国による中国分割はじまり、阿片戦争以来中国イギリス一国半植民地状態が崩壊したとりわけ満洲北中国を勢力圏にしていくロシア揚子江流域権益保持したいイギリス対立深まった1900年には中国分割反発した中国人暴徒たちが義和団の乱起こしたが、列強諸国連合軍によりただちに鎮圧された。ロシアはこれを好機として満洲軍事占領した。これに反発したイギリスソールズベリー侯爵内閣は、ロシア満洲朝鮮半島進出警戒する日本同盟交渉進めた1901年1月即位したエドワード日本との同盟前向きであり、同年8月には駐英日本公使林董との交渉にあたっていた外相5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスからの報告書欄外に「そのような可能性日露開戦)がある場合には常に日本心から支援与えることが最も重要である」と書き込んでいる。 エドワード1901年クリスマスから年末まで家族で過ごす予定だったが、その予定変更して12月27日に訪英中の日本の元首伊藤博文侯爵引見した。伊藤イギリス政界から「親ロシア派巨頭」と看做され警戒されている人物だったが、英語を流暢に話したため、すぐにもエドワード打ち解けることができた。翌1902年1月4日エドワード伊藤バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)を叙勲している。 伊藤帰国した後の1902年1月30日ロンドンランズダウン侯爵によって日英同盟が正式に調印された。日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方同盟国のために参戦、一か国との戦争場合はもう片方中立を保つという内容だった。そのためイギリス政府としては早急にフランス取りこんで露仏同盟を結ぶフランスロシアとともに日本宣戦布告するのを阻止する必要があった。

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日英同盟

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ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「日英同盟」の解説

ロシアいつまでたっても満洲から軍を撤兵させず、さらに韓国にも触手を伸ばすようになったことに警戒強めていた日本は、対ロシア同盟国求めようになったソールズベリー侯爵日清戦争以降日本実力評価するようになっており、1895年11月段階で「ロシアの軍事力は日本より劣っているであろう。」「日露戦争勃発して日本ロシア負けことはないと思う。なぜなら、日本日本本土基地使って戦闘できるが、ロシアウラジオストクからしか戦闘できないからである」と語っている。1900年義和団の乱での日本軍活躍ぶりはその信頼感を更に強めたこの頃イギリス本国周辺海域海洋覇権めぐってドイツ建艦競争になっていたため、「中国艦隊」を増強する余裕がなかったが、ロシアは「太平洋艦隊」の海軍力大幅増強中であり、戦艦数も装甲巡洋艦数もイギリス艦隊凌ぐ至っていた。ただし総トン数では極東にあるイギリス艦隊17トンなのに対して極東にあるロシア艦隊12トンだったので、まだイギリスの方が上だった。この当時日本海軍20トン艦隊有していたから、これを味方つければロシア対す圧倒的優位回復することができた。 そうした状況の中、駐英日本公使林董イギリス外相ランズダウン侯爵の間で日英同盟交渉進められ日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方同盟国のために参戦、一か国との戦争場合はもう片方中立を保つことが約定された。イギリス閣僚中には日本一方的に有利な同盟案であるとして、インド同盟適用範囲加えるべきという意見もでたが、ソールズベリー侯爵ランズダウン侯爵取り決めてきた内容だけで十分と判断した1901年即位したばかりの新国エドワード7世日本との同盟乗り気だった1902年1月3日親ロシア派日本の元首伊藤博文侯爵が訪英し、ソールズベリー侯爵ランズダウン侯爵最後交渉あたったソールズベリー侯爵1月7日反対派閣僚抑えて日本との同盟閣議決定した。こうして1月30日ロンドン外務省で日英同盟が締結される至った。 [先頭へ戻る]

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