ポーツマス条約
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関連作品
- 小説
- 吉村昭『ポーツマスの旗』新潮社、1979年/<新潮文庫>、1983年。ISBN 410-1117144。電子出版あり
- テレビ番組
- 『ポーツマスの旗』NHK総合、1981年12月5日と12月12日のスペシャルドラマで放映(全4部・6時間)
脚注
参考文献
- 麻田雅文『日露近代史』講談社〈講談社現代新書〉、2018年4月。ISBN 978-4-06-288476-1。
- 猪木正道『軍国日本の興亡 : 日清戦争から日中戦争へ』中央公論新社〈中公新書〉、1995年3月。ISBN 4121012321。中公文庫で再刊、2021年1月
- 片山慶隆『小村寿太郎』中央公論新社〈中公新書〉、2011年11月。ISBN 978-4-12-102141-0。
- 木村汎『日露国境交渉史 : 領土問題にいかに取り組むか』中央公論新社〈中公新書〉、1993年9月。ISBN 4121011473。
- 黒岩比佐子『日露戦争勝利のあとの誤算』文藝春秋〈文春新書〉、2005年10月。ISBN 4166604732。
- 隅谷三喜男 ほか『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』中央公論社〈中公文庫〉、1974年8月。ISBN 4122001315。
- 永峰好美 著「日露戦争 脱亜の果ての分割」、読売新聞20世紀取材班 編『20世紀大日本帝国』中央公論新社〈中公文庫〉、2001年。ISBN 4122038774。
- 長山靖生『日露戦争 もうひとつの「物語」』新潮社〈新潮新書〉、2004年1月。ISBN 4-10-610049-5。
- 半藤一利「小村寿太郎-積極的な大陸外交の推進者-」『日本のリーダー4 日本外交の旗手』ティビーエス・ブリタニカ、1983年6月。
- 藤村道生 著「ポーツマス条約」、小学館 編『スーパー・ニッポニカ Professional for Windows 『日本大百科全書』』小学館、2004年2月。ISBN 4099067459。
- 古屋哲夫『日露戦争』中央公論社〈中公新書〉、1966年8月。ISBN 4-12-100110-9。
- 読売新聞取材班 編『検証・日露戦争』中央公論新社〈中公文庫〉、2010年9月。ISBN 978-4-12-205371-7。
- 和田春樹 編「ロシア帝国の動揺」『ロシア史』山川出版社〈世界各国史〉、2002年8月。ISBN 978-4-634-41520-1。
- 田中, 陽児、倉持, 俊一 編『世界歴史大系 ロシア史2 (18世紀―19世紀)』山川出版社、1994年10月。ISBN 4-06-207533-4。
- 高田和夫 著「第9章 1905年革命」、田中・倉持・和田 編『世界歴史大系 ロシア史2』山川出版社、1994年。
関連項目
注釈
- ^ ポーツマス造船所自体はメイン州に位置する。
- ^ 米露間の外交関係は、日米関係のそれよりも歴史が古く、アメリカとロシアはたがいに大使を派遣しあっていたが、日本とアメリカでは公使を派遣しあうにとどまっていた。
- ^ セオドア・ルーズベルトは「(日本への)同情が欠如している」として駐韓米公使の選任を変更したこともあるほどで、日本海海戦の際も一日中そのニュースだけを追い、ルーズベルト自身「私は興奮して自分の身はまったく日本人と化して、公務を処理することもできず終日海戦の話ばかりしていた」と、その日のことを振り返っている[6]。
- ^ 小村外相や長岡外史参謀次長はロシアとの講和条件を少しでも日本側に有利なものとするために講和会議に先立って樺太を占領すべきであると考え、長岡はこれを軍首脳に上申したが、海軍は不賛成で参謀総長山縣有朋もこれに同意しなかった。そのため長岡は満洲軍の児玉源太郎に手紙を書いて伺いを立て、その返信を論拠に説得作業を展開、樺太攻撃を決めた。ロシアは講和の準備中での日本軍の軍事作戦に怒ったが、ルーズベルトは黙認した[8]。
- ^ 伊藤博文はロシアと戦うことに対しては終始慎重な態度をとり続け、「恐露病」と揶揄されることさえあった。1901年11月、伊藤が自ら単身モスクワ入りして日露提携の道を探ったことが、逆にロシアとのあいだでグレート・ゲームを繰り広げていたイギリスを刺激する結果となり、翌1902年1月の日英同盟締結へとつながったことはよく知られている[10]。
- ^ ロシア軍は伝統的に攻めには弱い一方、守りに強く、持久戦になれば地勢的な縦深性や厳しい気候上の特性(バートラム・ウルフによれば「距離将軍」「冬将軍」)を活用して侵入者の兵站ラインを遮断して反撃に転じる。19世紀初頭のナポレオン・ボナパルトや後世のアドルフ・ヒトラーなども、このロシアの戦術により、結局は敗退している[17]。
- ^ 小村の表敬訪問の際、「大統領はなぜ日本に対して好意をお持ちですか」という質問に対し、ルーズベルトは英訳の『忠臣蔵』を示したといわれる[21]。
- ^ このことは、日本国内でも条約締結後の10月に「小村の新聞操縦の失敗」として『大阪朝日新聞』で批判記事が掲載された[24]。
- ^ ポーツマス市は、小村壽太郎の出身地である宮崎県日南市とは姉妹都市の関係にある。
- ^ ポーツマス講和会議に関するフォーラムの開催やホテルの保存運動に尽力したニューハンプシャー日米協会会長のチャールズ・ドレアックに対し、日本政府は2011年6月、日米の友好親善に寄与したとして旭日小綬章を授与している[35]。
出典
- ^ a b c d e f "ポーツマス条約". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2021年1月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 永峰 2001, pp. 29–37
- ^ a b c 猪木 1995, pp. 53–56
- ^ a b 若狭和朋『日露戦争と世界史に登場した日本 : 日本人に知られては困る歴史 』2012, ISBN 9784898311899
- ^ 国際派日本人養成講座「地球史探訪:ポーツマス講和会議」
- ^ 永峰 2001, p. 34
- ^ a b 藤村 2004
- ^ 隅谷 1974, pp. 309–310
- ^ a b 黒岩 2005, pp. 9–10
- ^ 黒岩 2005, p. 10
- ^ a b c d e f g h i j 黒岩 2005, pp. 8–9
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 猪木 1995, pp. 56–62
- ^ a b 高田(1994)pp.362-363
- ^ a b 麻田(2018)pp.141-143
- ^ 古屋(1966)pp.29-30
- ^ a b c d e 黒岩 2005, pp. 12–13
- ^ 木村 1993, p. 69
- ^ a b c 『日露戦争特別展II 開戦から日本海海戦まで』「政治・外交(解説を読む)ポーツマス会議開始」(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
- ^ 半藤 1983, pp. 106–109
- ^ 隅谷 1974, p. 311
- ^ 猪木 1995, p. 57
- ^ a b c d 黒岩 2005, pp. 13–14
- ^ a b 長山 2004, pp. 170–174
- ^ 黒岩 2005, p. 9
- ^ a b c d e f 片山 2011, pp. 172–173
- ^ a b c d 半藤 1983, pp. 109–111
- ^ a b c d 読売新聞取材班 2010, pp. 253–256
- ^ a b 黒岩 2005, pp. 14–15
- ^ a b c d 和田春樹 2002, pp. 265–267
- ^ a b c d e f g 木村 1993, pp. 67–72
- ^ a b 長山 2004, pp. 174–181
- ^ a b c d e f 半藤 1983, pp. 115–118
- ^ 猪木 1995, p. 66
- ^ 隅谷 1974, pp. 321–323
- ^ チャールズ・B・ドレアック・ニューハンプシャー日米協会会長,旭日小綬章を受章 在ボストン日本国総領事館、2020年10月14日閲覧
- ^ ポーツマス市で多彩な行事/日露講和条約の調印記念日(四国新聞社)
- ^ “一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問主意書” 2011年3月21日閲覧。
- ^ “衆議院議員鈴木宗男君提出一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問に対する答弁書” 2011年3月21日閲覧。
- ^ アジア歴史資料センター B04011009100
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